宮崎県出身の明治~昭和時代に活躍した日本画家です。
初号を都洲といい、別号に空容子、起雲閣、蜀江山房、自足園主人、書禅堂などがあります。
地元では狩野派の中原南渓に学び、上京してからは同郷の造船技師で経営者だった須田利信の家に住まわせてもらい、川合玉堂に入門し、都洲の号を授かりました。
翌年、玉堂の勧めもあって橋本雅邦に師事し、前期日本美術院に参加するようになります。
「三顧草盧」という歴史画で初入選を果たすと、画号を本名の多門に改めます。
そして、須田の後援を受け、更に画技に磨きをかける事に専念し、同じ院展の中堅画家・山田敬中と比較されるまでになりました。
この頃は、伝統的狩野派風の肥痩や圭角の強い線ではなく、雪舟の広大で雄渾な山水画に大きな影響を受けた作品を描いています。
大正に入るとチフスを患い、死の淵を彷徨いますが、一命を取り留め、院展などで活躍する傍ら、若葉会で多くの後進の指導につとめました。
しかし、長男が結核で入院し、伝染病にもかかわらず、周囲の反対を押し切って見舞いに何度も行った結果、自身も結核にかかり55歳という若さでこの世を去りました。
また、身の丈6尺弱(180㎝ほど)の武骨な剣客風の風貌に似合わず、性格は極めて穏健で気配りの利く人だったそうで、上京して人気絶頂の多門に金品をねだる同郷の者に対して、浅草に案内してごちそうしたり、子供がいればおもちゃを買い与えたというエピソードが残されています。