幕末の長州藩士、思想家、教育者、兵学者、明治維新の事実上の精神的理論者。
幼名は虎之助、大次郎、通称は寅次郎。
1830年、長州藩士の杉百合之助の次男として生まれる。5歳の時、山鹿流師範の吉田家の養子になり、大次郎と名を改める。10歳にして藩校明倫館で兵学を講義し、11歳の時には、藩主面前でも兵学書についての講義、19歳では藩校明倫館師範を務めるなど、早熟の秀才だった。
1850年秋、21歳の時、九州に遊学。翌年藩主に従い江戸に入り、西洋兵学者・佐久間象山の塾に入門するが、脱藩し東北旅行へ出発する。52年4月に江戸に帰るものの、脱藩の罪により萩に帰り、杉家で謹慎することになる。この頃から松陰と号している。53年に藩の許可を得て諸国を遊歴して再び江戸に入る。その時、黒船の来航を知り浦賀に駆け付ける。さらにロシア艦隊が長崎に来航したことを聞き、長崎に出向き、乗り込む計画をしたがすでに出港した後だった。
1854年(25歳)になると、金子重輔とともに下田に行き、ペリー艦隊に乗り込み密航しようとしたが拒否され、失敗する。その後自首し江戸の牢に入るが、その後萩の牢に移送され、翌年に出獄の許可がだされる。1857年、杉家宅地内で叔父が開いていた私塾・松下村塾を継承・主宰者となり、死までのわずかな期間に、高杉晋作をはじめ、久坂玄端、伊藤博文、吉田稔麿、山形有朋など、階級を問わず各人の性格・特質を見抜き、幕末維新の指導者となる人材を教え育てるという教育者としての能力を発揮した。およそ80人の門下生を輩出するに至ったが、この頃が松陰の生涯の中で最も平和な時期であり、また最も輝かしい業績を残した時でもあった。
ところが、1858年、幕府が勅許を得ずに外国との通商条約に調印するに及んで、これに激しく非難し、老中の暗殺を企てた。これを知った藩は再び松陰を投獄。翌年、幕府の命により江戸へ移送され、安政の大獄の難にあい、59年10月27日、江戸伝馬町の獄で処刑された。享年30歳。
処刑の前、門下生に向けた書いた魂の遺書である「留魂録」を書き残しているが、そこには「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」の辞世の句が記されている。「留魂録」は松陰の死後、長州藩士の間で読み回され、行動力の源泉となった。