摂津国東成郡毛馬村(現・大阪市都島区)出身の江戸時代中期に活躍した俳人、画家です。
本名は谷口信章といいます。
別号に四明、夜半亭、朝滄、趙居士、夜半翁、三菓堂、雪斎、碧雲洞など多数あります。
村の有力者の家に生まれましたが、10代の頃に父と母を亡くし家を失ってしまいました。
20歳になって江戸に出て、早野巴人(夜半亭宋阿・やはんてい そうあ)に師事して俳諧を学びました。
松尾芭蕉に憧れており、芭蕉が旅した「奥の細道」を歩いたり、約10年にわたり日本各地を巡り、京都に定住します。
その後、結婚し長女が生まれ、画業で生活を支えていましたが、その生活は決して楽なものではありませんでした。
松尾芭蕉、小林一茶と並び称される江戸俳諧の巨匠の一人で、江戸俳諧中興の祖といわれています。
また、俳画の創始者としても有名で中国や狩野、土佐派をよく研究した独自の画風を築き、俳句、画共に蕪村の影響を受けた者は多く、その中には松村呉春、紀梅亭(俳諧と画)など多くの文化人がいます。
そして、言語の機能美を余すところなく活用した蕪村の発句は、近代俳句に大きな影響を与え、蕪村の発句は日本語の機能に依存する度合いがきわめて大きいため、外国語への翻訳は困難であるとされています。
そんな蕪村ですが、64歳の時に妻子を持つ身でありながら、京都祇園の美人芸者に夢中になり、友人の忠告で彼女と別れる事になり、それを惜しんで句を詠んだというエピソードが残されています。