明治から昭和にかけて活躍した洋画家・版画家。女性像を得意とし、繊細な筆づかいと上品な色調の画風で知られています。女性特有のきめこまかな肌合いの描写と洗練された装飾性が特徴的な岡田三郎助の作品群は、洋画を通して当時の日本に新しい感覚をもたらすきっかけとなりました。
岡田三郎助は1869年佐賀県八幡小路に生まれました。父は石尾孝基、旧鍋島藩士で維新後は検事の職にあったといいます。2歳頃に父に連れられ上京し、麹町の鍋島直大侯爵の邸内(元伏見宮別邸)で少年時代を過ごします。8歳頃から絵を描き始めますが、すでにこの頃より陰影をつけた絵を描くなどしていたそうです。また邸内で見ることのできた同郷出身の百武兼行の作品に感銘を受け、幼くして洋画家への道に憧れを抱きます。
しかし石尾家の家庭は厳しく、三郎助が絵に夢中になっていたのを父はひどく嫌ったといいます。時には法律を、また別の機会には工業を、といった風に周囲の意見により紆余曲折しますが、15,6歳に成長した岡田の絵に対する想いは募るばかりでした。ついには見かねた叔父から「絵をやるなら真面目にやれ」と後押しされたことで、画家になる決心を周囲に打ち明け、志望が叶えられます。1887年兵役関係の事情もあり、18歳で岡田正蔵の養子となった三郎助は、同年曾山幸彦の画塾に入門し、念願だった洋風画を学び始めました。
奇しくも当時の日本では、小山正太郎の不同舎や、山本芳翠の生巧館などの洋画塾が次々と開校し、いずれもが明治初年以来 せっかく日本に導入された洋画技法を保持し拡げようと奮闘している時期と重なり、こうした時代を背景に岡田は絵画への道を出発し本格的に励むようになります。
1893年に画塾を修了した翌年、同郷で生家も近かった久米桂一郎により、フランスから帰国し やがて外光派の先導者となる黒田清輝を紹介され、彼らが創設した天真道場に入門して更なる西洋画の技術習得に励みます。1895年第4回内国勧業博覧会で『初冬晩暉』を出品して3等賞を受け、画家として注目されるようになった岡田は翌1896年東京美術学校に新設された西洋画科の助教授に藤島武二とともに任命されます。さらに1897年には文部省最初の美術留学生として渡仏し、黒田の師でもあるラファエル・コランに学びます。1902年に帰国した後は、同学校の教授に就任して教鞭をとります。
岡田の作風の特徴である、繊細な筆致と豊かな色彩といった独自の様式はこうして徐々に確立されるますが、ついには1934年帝室技芸員に選任されます。さらに文化勲章が制定された1937年、その最初の受章者9名の芸術家や科学者のひとりとして、横山大観、竹内栖鳳、藤島武二らと並び、授与の栄誉を受けました。
明治期から昭和期かけて、日本ではファッションや美意識の一大変革が起こります。開国後の急速な欧米政策により、江戸時代から続く伝統的な化粧や髪型、服装は次第に姿を消し、西洋式のスタイルがとり入れられるようになりました。この時代、新たなアイコンや理想の「美人像」のイメージ誕生に大きな役割を果たしたのが岡田三郎助と言われています。大きな瞳と卵形の均整のとれた輪郭が特徴的な岡田の女性像は、百貨店のポスターや雑誌の表紙を飾り、「岡田調の美人」は瞬く間に人々の憧れの的となりました。
浮世絵や伝統的な日本画に影響されない洋画家という立場にいたこと、甘美な女性像を得意としたコランに師事したことが、新しい時代にふさわしい「美人イメージ」を創出することに繋がったと考えられます。
官展の重鎮であった岡田三郎助は、女子の洋画教育にも尽力したことで知られています。
岡田三郎助の没後3年目の1942年には、岡田の功績と人柄を偲んで40名あまりの画家仲間や弟子が寄稿した『画家岡田三郎助』が発行され、アトリエでくつろぐ姿や、展覧会会場での記念撮影の様子を収めた写真などが掲載されています。その中でもとりわけ華やかな1枚が「女子洋画研究所にて(昭和7)」と題された写真で、和服姿で微笑む岡田を中心に、周囲を若い女性が取り囲む様子が写されています。女性達は、岡田が主宰で開設した女子洋画研究所に通っていた弟子たちで、和装や洋装が入り混じり、お下げやウェーブヘア、耳のあたりまで切り揃えられたショートヘアといった様々な髪型で、まさに昭和初期の日本人女性の自由で活き活きとした装いが写し出されています。
東京美術学校への女性の入学が認められず、まして女性がプロの画家になることなど皆無に等しい時代において、先進的で自由な生き方と教えを求め、研究所に集まった多くの女流画家の卵たち。そのメンバーの中には、有馬三斗枝、甲斐仁夜、森田元子、深沢紅子、三岸節子、岡田節子、いわさきちひろなど、そうそうたる顔ぶれで、岡田の尽力が その後多くの女流画家を輩出することに繋がりました。
1869年 佐賀県佐賀町八幡小路に生まれる
1891年 明治美術会会員となる
1895年 画塾天真道場に入る。第4回内国勧業博覧会に出品し、3等賞を受ける
1897年 前年に患った腸チフスの後遺症で左耳の聴力をほぼ失う。渡仏し、ラファエル・コランに師事する。
1902年 帰国し東京美術学校で教授に就任する
1906年 作家・劇評家 小山内薫と結婚
1913年 国民美術協会の創立に参加し、評議員となる
1925年 自宅アトリエに女子洋画研究所を開設する
1934年 帝室技芸員となる
1936年 勲二等瑞宝章を授与される
1937年 第1回文化勲章を受章する。帝国芸術会員となる。
1939年 渋谷区伊達町の自宅にて逝去。特旨をもって従三位勲二等を昇叙される
●矢調べ (1893年)
岡田三郎助の初期の体表作として知られる作品
●某夫人の肖像(1907年)
明治40年東京勧業博覧会に出品し1等賞を取った作品。出品当時の画名は『紫調』
●ダイヤモンドの女 (1908年)
大きな瞳とふっくらとした唇、卵形の均整のとれた輪郭の「岡田調美人」の初々しい表情が大衆を魅了した
●水浴の前 (1916年)
第10回文展に出品した作品
●あやめの衣(1927年)
近代洋画史上の美人画の中、随一の名品として未だに高い評価を受けている
●薔薇(1931年)
岡田がしばしば好んで絵にしたモチーフ
●婦人半身像(1936年)
大陸進出後、女性のファッションとして中国服が流行した頃に描かれた作品