明治から昭和に活躍した洋画家。
画家自身が最初に学んだ日本画的画風と当時の日本では未だ異質であった西洋の先進的な油彩表現を融合させた、芸術性の高い作品を多く残しています。また東京美術大学(現・東京藝大)において、ほぼ半世紀にわたって後進の指導にあたり、日本近代洋画の目まぐるしい変革期において教育者としての役割を担った重鎮としても知られています。
藤島武二は、明治政府の樹立も間近い1867年に薩摩藩士藤島家の3男として鹿児島市に生まれました。家系には狩野常信門の画家で島津家のお抱え絵師としてつとめた親戚もおり、自身も見よう見まねでそのような絵を好んで描いていたそうです。ほかにも北斎漫画や祖父が長崎で手に入れた油絵の模写にも親しんだといい、席画を試みたことがあったほど幼少の頃から画家として才能の片鱗を見せていました。
1883年鹿児島中学校を2年で中退、鹿児島の四条派画家平山東岳に師事して日本画を学びます。1884年洋画を学ぶため上京しますが、美術学校の閉鎖などで上手く行かず、すぐに帰郷します。
翌年再び上京、周囲の勧めにより、当時では革新的な日本画家として知られていた川端玉章に入門しました。
藤島は日本画を学ぶ間も、かねて希望の洋画家になろうという決意を変えず、傍らで神田に開校した語学学校でフランス語を学んでいます。
しかし日本画の修業も決して怠らず、1887年東洋絵画共進会では「設色美人図」で一等褒状、さらに1889年の青年絵画共進会では「美人図」で、褒状を受けています。日本画家として本格的に修業し認められるだけの腕前を発揮していたことが、のちに洋画家としての功績を遺すにあたり、重要な経験につながったのは言うまでもありません。
かねての洋画学習の夢は1890年、藤島が23歳の時に叶います。
川端のもとで学ぶ傍ら、同郷の洋画家曾山幸彦を紹介され、画塾に通うようになりました。さらに中丸精十郎にも学びますがあきたらず、松岡壽に教えを乞い、さらに新しく本格的な教育を求めて、山本芳翠にも学びました。
洋画を学び始めて1年程の1891年には明治美術会第3回展に出品した「無惨」が森鴎外に称賛され、早くも注目を集めます。
年老いた母の暮らしを助けるため一度は三重県津の尋常中学校に助教授として赴任しますが、1896年東京美術学校西洋科新設に伴い、同郷の先輩にあたる黒田清輝の推薦により助教授に迎えられ、東京に戻りました。
東京に出た後は黒田の主宰する白馬会会員となり活動し、1901年から雑誌『明星』の表紙や挿絵を手掛けながら自己の画風を確立させていきます。
1905年文部省により絵画研究のためヨーロッパ留学を命ぜられ、パリの国立美術学校のフェルナン・コルモンの教室に入り、東京美術学校では弟子にあたる山下新太郎と同じ教室で学びます。
ほぼ2年後には、コルモンの紹介状を得てローマへ赴き、カロリュス=デュランに教えを受けました。
欧州留学について藤島は「カロリュス=デュラン氏の芸術にはむしろ同感を持つことのできない傾向を持っていたが、他山の石といった意味から務めて自分の趣味と反対の側も研究してみたいという考えで、パリではコルモン氏につき、ローマではデュラン氏の門を叩いた。そして自分では今まで全く気づかなかったことも知ることができて、役立つ点も少なくなかったと信じている」と回顧しています。
1910年に帰国し、文展またその後身の帝展の中心となって活躍する一方、東京美術学校教授に任命され、教育者としても大きな役割を果たすこととなります。
1924年発表の「東洋振り」をきっかけに東洋画風に回帰していった藤島は、この作品に対して「日本のモデルを使って東洋的な典型的美をつくりたい」「西洋画の材料を駆使して西洋臭味を離れたものを描こうとしている」と語り、以後の活動の画期的な出発点になっている、と回想しています。
1937年には近代洋風画の向上と 後進を指導し啓発した、多数の功績により文化勲章を受章しました。
晩年には昭和天皇の即位祝いに学問所を飾る油彩画を依頼され、その制作のために日の出の風景を求めて日本各地からモンゴルにまで足を伸ばし、日の出の連作に挑みました。9年の歳月をかけて完成させた「旭日照六合」はその装飾性と雄大さから晩年藤島武二が遺した代表作として知られています。
幕末から伝わる絵画の伝統と自らが受けたルネサンス美術の影響を調和させ、近代の伝統を創り出したといえる藤島武二は1943年脳溢血により死去しました。
1867年 鹿児島市に生まれる
1885年 上京し、川端玉章に入門。雅号玉堂を名乗る
1896年 黒田らと白馬会を結成。東京美術学校西洋画科助教授に就任
1901年 一条成美の死去により、雑誌明星の表紙絵・挿絵などを担当
1905年 文部省留学生として渡欧
1910年 帰国。東京美術学校教授となる
1937年 文化勲章受章。帝国芸術院会員となる
1943年 かねて病床に伏していたところ享年75歳で死去
●池畔納涼 (1898年)
第2回白馬会展に木炭による下図を発表後、第3回にようやく完成作を送った大作
●天平の面影 (1902年)
重要文化財指定
●蝶 (1904年)
アール・ヌーヴォーの影響を受けた藤島の作品のなかでもよく知られる代表作のひとつ
●黒扇(1908年~09年)
表現方法が革新的だと話題になった女性像の代表作
●うつつ(1913年)
第7回文展で3等賞を受けた作品
●東洋振り(1924年)
イタリア絵画の作品に見た、横顔の美しさにヒントを得て描かれたという作品
●女横顔(1926年)
藤島の後期の様式に共通する筆遣いで描かれている
●旭日照六合(1937年)
内モンゴルの壮大な日の出をもとに描き、天皇の学問所に納めた作品