京都で生まれた安井曾太郎は、幼い頃から絵を描く事は好きで将来は画家になりたいと夢見ていたそうです。
しかし、安井曾太郎が生まれた家は木綿問屋を営む商家だったため、将来跡継ぎの為にしかたなく商業学校へ入学する事となりました。
泣く泣く商業学校へ入学した安井曾太郎ですが、どうしても夢を諦める事は出来ず両親に画家になりたいという夢を語ります。
案の定両親は猛反対しますが、そんな両親をなんとか説得させる事に成功した安井曾太郎は15歳で商業学校を中退し、翌年京都にある聖護院洋画研究所に入所し聖護院洋画研究所を立ち上げた浅井忠と指導者の鹿子木孟郎に師事し絵画を学びました。
ちなみに、洋画家である梅原龍三郎も聖護院洋画研究所で絵を学んだそうです。
1901年に京都や大阪など関西の画家たちの協力により作られた関西美術会と1903年浅井忠により設立された聖護院洋画研究所が1906年に統合し関西美術院となりました。
安井曾太郎は18歳の時浅井忠が院長を務める関西美術院に移り絵の学びを続けます。
翌年、関西美術院で一緒に学んでいた先輩画家で書家の津田青楓が絵画の勉強のためフランスに留学する事を聞いた安井曾太郎は、津田青楓と一緒にフランスに渡る事を決意しました。
フランスに渡った安井曾太郎は、7年間地元の美術学校に通ったりイギリスやイタリアへ旅行に行くなど過ごしていましたが、第一次世界大戦の影響と自身の体調面からこれ以上フランスには居れないと察し、1914年日本に帰国します。
帰国後の活躍
帰国から1年後フランスで制作していた作品を44点第2回二科展に出品し二科会会員にも推薦されますが、その後10年程体調が優れず、またフランスと日本の風土の違いに苦しみ
独自の作風を模索していた為、画家としては低迷期を迎えていました。
そこから5年後の安井曾太郎が42歳の頃から徐々に画家として回復し独自の作風を確立させ、画家になる前に学んだ聖護院洋画研究所の動機である梅原龍三郎と共に昭和期を代表する洋画家へと成長します。
その後は後世の育成を行いながら、作品制作も続けた安井曾太郎は、56歳で梅原龍三郎と共に東京芸術大学の教授に就任しました。
64歳では文化勲章を受章するなど功績を遺した安井曾太郎でしたが、3年後の67歳で惜しまれつつこの世を去ります。
ちなみに、安井曾太郎はフランスへ渡る際それまで描いていた作品を全て焼き捨てている事から、初期の作品はほぼ残っていないそうです。