北海道に生まれた金子鷗亭は、小学校の頃自身が書いた書道作品を先生から褒められた事で書道について興味を抱きます。
その後中学校の教育機関も整っている札幌鉄道教習所へ入学し、そこで書家の大塚鶴洞と川谷尚亭と出会い書道を学ぶようになりました。
翌年、大塚鶴洞の家で書の世界の広大さに触れた金子鷗亭は、書道家の道を究めたいと勉強を重ね、自身の実力を高めていきます。
そして26歳の頃、昭和の空海と呼ばれた書家の比田井天来に出会い自身の書道作品を認められ、書道家になりたいなら私の元で修行しなさいと言われた金子鷗亭はすぐさま上京し、比田井天来の元で修行を始めました。
比田井天来は、師の作品を手本にして習うという従来の指導方法ではなく、中国や日本の古典を自身で深く研究し、書の神髄を学ぶという指導方法です。
金子鷗亭は比田井天来の指導方法により水を得た魚のようにどんどん技術や書道の歴史を吸収していきました。
その結果、展覧会や書道展、数多くの賞を受賞するなど功績を残し、27歳では書道家の上田桑鳩が設立した書道芸術社に参加、その後近代詩を書にする近代詩文書運動を起こし、58歳では総合書道団体の創玄書道会を設立して会長に就任します。
60歳では日本橋三越で第1回個展を開くなど活躍の幅を広げ、64歳では金子鷗亭の故郷北海道松前町にある松前城で石碑を制作し、それから13年後には勲三等旭日中綬章を受章しました。
80歳になると自身の故郷にある道立函館美術館に作品を寄付、そこで美術館側が金子鷗亭の作品をいつでも見られるようにと鴎亭記念室を開設します。
その翌年には文化功労者を顕彰し毎日芸術賞を受賞、2年後には北海道開発功労賞を受賞、翌年には文化勲章を受章、松前町名誉町民を顕彰されるなど書道界へ数多くの貢献をされましたが、95歳で長い天寿を全うされました。