村上三島は愛知県の越智郡瀬戸崎の大三島に生まれますが、少しして大阪の三島郡へ引っ越しそこで暮らすこととなります。
中学の頃から書道が好きだった村上三島は、足の病気を患い足が不自由になった事がきっかけとなり、中学校の国語の先生から書家の片山萬年を紹介され、片山萬年に師事するようになりました。
その後33歳で書家の辻本史邑に師事しながら書道を学んだ村上三島は、その3年後に日展で書道の部門が新設された事を受け、「杜甫九日詩(とほきゅうじつし)」という作品を初出品し初入選を果たします。
初入選を果たした村上三島の勢いは止まらず、翌年の日展に出品した「杜甫寄弟詩」という作品で特選を受賞、さらにその3年後にも同じ日展で「陸放翁暁歎詩」という作品を出品し特選を受賞するなど功績を残しました。
49歳では、その功績が買われ日本書芸院理事長に就任し、作品制作だけではなく後世の育成にも励みます。
その後も作品制作を続けた村上三島は、主に日展で様々な賞の受賞を重ね、73歳では日本芸術院会員となり、その3年後には勲三等旭日中綬章を受章しました。
晩年になっても作品制作の意欲は衰えませんでしたが、この頃の日本では技術の発展に伴いパソコンやワープロが普及し手書きで文字を書く事が減ってしまったのです。
そんな状態に危機感を覚えた村上三島は、手書き文字の良さを広める為活動を続けます。
また、日中間の書道の交流にも積極的に参加し81歳では中国人以外で初となる上海美術館の特別顧問・特別研究員に就任し、文化功労者の顕彰を受けました。
86歳で文化勲章を受章した村上三島は、93歳で日展に「呉蘭雪詩「陽霊山」という作品を出品、その後書道界を引退した事からこれが最後の作品となります。
そして同年の11月に心不全で死去、その後これまでの功績が認められ従三位に叙されました。
村上三島が活躍した時代の日本は、中国の唐時代以前の書道を模範としていましたが、村上三島は中国の明時代末期に活躍した書家の王鐸が書いた作品を研究し独自の書風を確立させたのです。
また、日展常務理事や日展顧問、日本書芸院理事長、日本書道教育会議副会長などを歴任し、自らも書道団体の長興会を設立するなど後世の育成や書道界への数多くの貢献をされてきた村上三島に影響を受けた書道家たちも数多く存在します。
村上三島がこれまで行ってきた活動が多くの書道家たちに受け継がれ、今後も発展していく事を願います。