明治から大正にかけて活躍した西川春洞の三男として生まれた西川寧は、父親の影響もあり幼い頃から書道に触れる機会が多く、父親が集めた書跡や拓本は西川寧のおもちゃとなっていました。
5歳で篆書に触れるなど書道が身近にある家庭で育ってきた西川寧は、書道家の父、西川春洞が制作していた篆刻に興味を示し、自身もやってみたいと申し出たところ父から許可を得て、父が布字した印鑑を実際に彫ったそうです。
その中でも「仁者寿」という印鑑が有名で、また同じときに書かれた篆書「寿」も残っています。
ですが、西川寧の師匠と言っても過言ではない書家で父親の西川春洞は、西川寧が13歳の時にこの世を去ってしまいました。
父親の西川春洞が亡くなってからの西川寧は、まるで篆書に憑りつかれたかのように没頭し、中国の篆刻家である徐三庚の書風で作品を制作し、完璧無比な物を作り上げました
西川寧はこの時の自分を篆書時代と称しています。
20代では、中国の政治家で書家の王羲之の作品研究に没頭、その後中国清時代の書家の作品を見始める内に中国清朝中後期に最も活躍した書家で篆刻家の鄧石如の書風にも夢中になり研究を重ねました。
西川寧が23歳の頃、慶應義塾大学文学部支那文学科を卒業し、同大学の予科講師を務めるなど後世の育成にも精力的に参加していました。
その後31歳では同志と共に泰東書道院・謙慎書道会という書道団体を創立し、自身の作品制作も続け、様々な書家の書風を見て憧れ研究を進めた西川寧は、生涯書風を研究する事になる趙之謙の作品に出会います。
趙之謙は、中国清時代の末期に書家・画家・篆刻家として活躍し、中国で最も優れた芸術家といわれている呉昌碩や現代中国画の巨匠とも言われている斉白石など数多くの後輩が手本とした人物です。
西川寧も呉昌碩や斉白石と同じく趙之謙の作品に興味を抱き、生涯趙之謙の作品を研究し続けます。
また、その後の西川寧は中国の南北朝時代に北朝で発達した独自の楷書体の書風をベースに趙之謙の書風を掛け合わせた西川寧独自の書風を確立しました。
1943年に慶応大学の予科教授・1946年に慶応大学文学部の講師を務めた西川寧は、1947年に東京国立博物館調査員となり15年間北京で中国文学、金石学、中国書法の調査と研究を行うなど書道界に貢献します。
自身の作品制作を行いながら、日展の評議員や東京教育大学での教授、国学院大学と東京大学の文学部の講師を務めるなど後世の育成も精力的に行っていました。
70歳で勲三等瑞宝章を受章、83歳では日本人書家として初となる文化勲章を受章するという快挙を成し遂げます。
ですが、文化勲章を受章した4年後の87歳で惜しまれつつこの世を去りました。
昭和の三筆の一人・書の巨人とも言われ現代の書道界に大きな影響を及ぼした西川寧は、死後正三位勲一等瑞宝章を追贈されました。