小林 斗盦 文化勲章受章者
小林斗盦は篆刻家(てんこくか)として初めて文化勲章を受章しました。
その実力は篆刻だけにとどまらず、書道家である他、文字学、印学の造詣が深いことでも知られています。
小林斗盦
小林斗盦は1916年に埼玉県の川越で祖父の代から印象業を営む家に生まれ、10歳の頃から篆刻を学びました。
書にも興味があり、中学生の時に書道家の比田井天来(ひだいてんらい)を度々訪問し、第89回日本美術協会展に入選など才能を見せています。
中学卒業後は父親の知人の紹介で篆刻家の石井雙石(いしいそうせき)に師事しました。
1938年22歳の頃から書と篆刻の両方で受賞を繰り返し、1941年に篆刻家の河井荃廬(かわいせんろ)の門下となりますが、1945年の東京大空襲により河井荃廬が亡くなってしまい、書家の西川寧(にしかわやすし)に師事となります。
1950年には34歳の若さで日展の特選を受賞、1959年 新日展では特選・苞竹賞を受賞しました。
その後も日展や新日展に作品を出品し続け、数々の受賞の他に審査員や常任理事にも選ばれています。
篆刻界の重鎮として活躍し、2004年に篆刻家として初めて文化勲章受章となり、91歳の生涯を閉じるまで多くの素晴らしい作品を残した篆刻家です。
漢委奴国王印の真偽論争
約2000年前に中国の皇帝から日本に与えられたとされる金印『漢委奴国王印 (かんのわのなのこくおういん)』は江戸時代(1784年の説が有力)に発見され1931年に国宝に指定されています。
福岡の志賀島で百姓が偶然発見したそうですが、他に出土品がなかったり、その百姓の存在自体が怪しいなど不自然な点が少なくありません。
有名になりたかった学者によって江戸時代に制作された偽物だ、という説もあり度々調査が行われていました。
漢委奴国王印の真偽が論争される中、一石を投じたのが小林斗盦です。
小林斗盦は篆刻や書に留まらず、1948年に中国古代学者の加藤常賢から文字学を、1953年には太田夢庵から中国古印学の指導を受け、日本にある中国の古印を探訪した他、かなりの数の中国の古印や書画の優品を収集し長年研究を続け、その実力は本場中国でも高い評価を受けています。
1967年 小林斗盦は東洋文庫での講演『漢代官印私見』の中で、漢委奴国王印は刻印技法や字体などからみて本物である、と論証し、そのことから本物説に大きく傾きました。
歴史の教科書にも登場するこの漢委奴国王印は、その後2006年に千葉大学教授の三浦佑之によって偽物であるとする新説が大々的に論じられ、現代の科学的な検証を取り入れてもなおはっきり本物とも偽物とも言えない状態が続いています。