奥田小由女は令和2年(2020年)に人形作家では初の文化勲章を受章、そして夫の日本画家である奥田元宋も文化勲章受章者であることから、史上初の夫婦での文化勲章受章となっています。
奥田小由女
奥田小由女は1936年に大阪で生まれ、まだ幼い時に父親が病死し、1939年に母の故郷でもある広島県の吉舎(現在の三次市)に引っ越ししました。
小学生になった頃に戦争は激化、広島市内に原爆が投下され、叔父が被爆し助けに広島市に向かった祖母も原爆症で亡くなります。
この経験は平和を願う強い祈りとなり、始めからずっと今も変わらず作品に込められているそうです。
子供の頃から絵やきれいな物が好きで、高校生の頃は度々東京まで展覧会を見に行き、人形に出会い直感的に惹かれ、卒業後に上京し林俊郎に2年間師事しました。
独立した時は高度成長期で目新しい人形を制作して欲しいと注文が殺到したそうです。
新しいアイデアで人形を制作しても、店頭に並んで1週間もすると他の業者に真似され、もっと別の物を要求される、ということを繰り返しました。
自身を磨く為に20代の頃はヨーロッパ旅行を重ね欧州の芸術作品に浸りますが、次第に日本伝統の芸術の魅力に気付きます。
1965年にはアトリエを構えて弟子も取り生活は安定し、1967年に日展に初入選、以後何度も入選、そして1972年と1974年に特選を受賞しました。
奥田小由女が人形作家として忙しい日々を過ごす中、妻に先立たれた高名な日本画家・奥田元宋との結婚話が持ち込まれます。
同郷出身で親族同士が知り合いであった縁で、日展の常任理事で多忙を極めた奥田元宋が一人ではやっていけないから助けて欲しいこのことでした。
悩んだ末にできるだけのことをしようと決心し、奥田小由女40歳、奥田元宋64歳での結婚です。
結婚後は奥田元宋のサポートがメインとなり、奥田小由女は自身の制作時間の確保が難しくなりましたが、分野も作風も全く異なる2人は良い影響を与え合い、二人展の開催や長年の夢であった二人の美術館の実現に向けて共に歩み続けました。
そして史上初の夫婦共に文化勲章受章を遂げています。
受章時には「人形は目立たない存在で勲章をいただくなど想像もしてなかった。芸術として認められ、評価されたことに感謝しかございません。」「日本の良さが世界に発信できるように努めてまいりたいと思います。」とコメントしています。
残念ながら奥田元宋は美術館の開設前に先立ってしまいましたが、奥田小由女は活動を続け、現在は日展理事長として、人形だけに留まらず日本の芸術全体を牽引中です。
奥田小由女の作風
奥田小由女の初期の作品は『白の時代』と呼ばれ、胡粉の白を基調にした、自然のモチーフで抽象的な作品が特徴です。
木彫りした像を胡粉で丁寧に何度も塗り込める技法で、日本独特の美である胡粉を美しく仕上げるのは非常に難しく、伝統工芸に助けを求めても秘伝であると教えてもらえず、自身で研究を積み重ねました。
そして古典的で高度な技を用いて新しい自由な表現で制作された作品は高い注目を集め、まだ芸術界では認識の低かった人形制作の芸術的地位を向上させるほどの影響力でした。
結婚後は生活が激変し、日展の常任理事であった夫は多忙を極め、奥田小由女は補佐役に徹します。
気難しい奥田元宋は好んで奥田小由女を側に置き、時間を取らせて申し訳ないと負い目を感じてはいたものの、常に意見を求めるなど制作に付きっきりの日常であったようです。
奥田小由女は毎日夫の芸術に寄り添う中で、『元宋の赤』と呼ばれる独特の赤を持ち迫力のある風景を描く夫から刺激を受け、色を取り入れ独自の色胡粉を開発します。
全て白の時と違い、色ごとに作業を区切れるので、短い作業時間を積み重ねることで人形制作することが可能となり、モチーフは主に婦人像で色彩豊かで優美な作風となりました。
造形ではなく心象的なものを込めて制作されており、初期から続く平和を祈るメッセージは絶えることはありません。
色彩を取り入れてからは母性や慈愛を感じさせる作品が増え、奥田元宋が亡くなってからは夫の鎮魂を願う清廉な作品、近年では東日本大震災や台風被害の犠牲者への祈り、コロナ収束への希求が込められた作品が生み出されています。