大久保 婦久子 文化勲章 受章
日本の皮革工芸は江戸時代から大正まで武具や仏具のごく一部でしか使われていませんでした。
大久保婦久子は日本にはなかった皮革造形美術を示した先駆者であり、皮革のレリーフを考案するなど独自の世界を切り開いています。
大久保 婦久子
大久保婦久子は1919年に静岡の下田で生まれ育ち、下田高等女学校を卒業後は神奈川の女子美術専門学校 師範科 西洋画部に進みました。
大学では油絵を学びますが、20歳の頃に革という素材に出会い魅了され 在学中に皮革染織を学び、そこから皮革工芸を制作し始めます。
大学を卒業した年に第二次世界大戦が開戦し、多くは語られていませんが制作どころではなかったはずです。
日本の敗戦に終わり戦後復興期の始まりである1950年から、31歳になった大久保婦久子も東京銀座資生堂で個展を開くなど積極的な活動を開始しました。
翌年には漆芸の山崎覚太郎に師事を開始、この山崎覚太郎は漆芸を実用品だけではなく『漆絵』と呼ばれる絵画としても表現し、漆芸の芸術化に大きく貢献したことでも知られています。
大久保婦久子による革工芸の芸術化はこの師・山崎覚太郎の影響もあったのかもしれません。
翌1952年、大久保婦久子は日展に初入選し以後も入選を重ねました。
夫で外光派の洋画家・大久保作次郎の勧めもあり、皮革工芸研究のため単身で渡欧しイタリアやフランスで7ヶ月間学び、帰国後の1961年に日展で特選および北斗賞を受賞し飛躍を見せます。
その後も内閣総理大臣賞受賞、文化功労者に選定の他、皮革造型グループ『ド・オーロ』を結成するなど後続の育成にも力を入れました。
2000年に文化勲章受章、11月3日に皇居で行われた親授式では天皇陛下から勲章を受け取り、直後の会見で「芸術の中心はみな一緒です。力を注ぐことが大事なこと。」と語っています。
しかし翌日に急に体調が悪くなり心不全で他界し、その突然すぎる悲報に新聞でも大きく報じられ惜しまれました。
作風
大久保婦久子が皮革工芸の制作を開始した初期は、家具の一部装飾として皮革を使用していましたが、ヨーロッパから帰国した頃から皮革のみの作品に変化していきます。
そして皮革を実用品ではなくレリーフ(木や石の平らな面を浮き彫りにしたもの)で表現し、純粋な芸術として開放しました。
皮革の温かみのある質感を活かし、皮革表面を打ち付けた凹凸の表現や、編み込み、張り込みなど様々な技法を取り入れており、その繊細な皮革の膨らみや影が生み出す余韻は、絵画とは異なる幻想的な世界を映し出しています。
色は皮革の素材そのものの色を基調とし、金箔を置いて光のトーンが加えられ、金属でありながら優しい凹凸が独特です。
テーマは古代や縄文時代などに思いを巡らせ、人間本来の素朴な祈りを込めた作品が多く、抽象的な表現をしています。
スケールの大きい神秘的な作品もあり、悠久の時間に思いを巡らせられるような叙情的な感動を与えてくれる皮革工芸です。