山形県出身の昭和後期~平成時代に活躍した日本画家です。
ヒマラヤを題材としたスケールの大きな画面構成が特徴の画風で知られ、ヒマラヤを題材とした連作を残している事でも知られています。
ヒマラヤ以外にも身近なものをモチーフとした作品も手掛けており、これらの作品は初期の頃によく見られます。
福王寺法林は一つの作品にとりかかるまでに100枚近くのデッサンを行う事から、「デッサンの鬼」と呼ばれています。
8人きょうだいの2番目で唯一の男の子として生まれた福王寺法林は本名を福王寺雄一といい、福王寺家は米沢上杉藩の槍術師範の家系で、先祖は新潟県小千谷下倉山城の初代城主・福王寺尊重で、上杉謙信の時に上杉家と養子縁組をして上杉藩の移動に伴い一緒に米沢へ移ってきたと記録に残されている由緒正しい家柄です。
そのため、子供の頃から剣道や空手など武道をたしなみ、武家の血筋を引いているからなのか人一倍負けず嫌いな性格をしていました。
小学校一年生の時に父親と猟に出かけ、銃の暴発に巻き込まれ左目の視力を失ってしまいます。
この事が人一倍の負けず嫌いな性格に拍車をかけ、左目のハンデを人前には出さず、愚痴一つもこぼさず健常者と同じように過ごしていました。
絵を描く事は幼い頃から好きだったため、小学2年生から狩野派の老画家・上村廣成に学び、普通の人以上に努力を重ね、やがて画家を志すようになり16歳で上京する事を決意しました。
実力があっても上京したからといってすぐに絵が売れるわけでもなく、一般人や俳優の似顔絵や映画の看板を描くなど生活のために絵を描き、何とか食いつなぎながら下積み時代を過ごしました。
しかし、戦争によって召集され、中国戦線に配属が決まります。
戦地へ赴く前に「生きて必ずここへ戻って絵を描く」という強い意志を示すために高級な岩絵の具を買い込み、地中に埋めました。
戦地では普通なら気持ちが折れ、命を絶ってもおかしくない出来事が続きましたが、埋めた岩絵の具の事を思いだすと「生き残って絵を描く」という希望が湧き、無事に帰国し、画家としての活動を再開しました。
結婚してからは夫人とともに二人三脚で画業を続けており、精力的に作品を次々に発表していきます。
その事は婦人がパーマ代といって渡されたお小遣いをすべて絵の具代につぎ込み、指紋が無くなるまで岩絵具の顔料を溶く手伝いをしていたというエピソードからも夫婦で画業に取り組んでいた事が分かります。
こうして画家として名声が上がると身近なものをモチーフにしていた画風から一変し、遠くへスケッチ旅行に出かけ、時にはヘリコプターなどを使って上空からの構図を作品にするようになります。
54歳の時に初めてネパールのヒマラヤへ取材旅行に出かけるとヒマラヤを題材とした作品を手掛けるようになり、連作も発表するようになりました。
これは子供の頃に一番高い山はヒマラヤだと聞いた時に「いつか必ずヒマラヤを描いてみせる」という熱い思いがあってヒマラヤを描き続けたと本人が語っています。
その作品たちは東京三越で開催されたヒマラヤ展示会で展示され、その時にネパールの王様が展覧会に訪れ、とある絵を気に入り、福王寺法林はその絵をプレゼントしました。
そのお礼として福王寺法林がヒマラヤスケッチのためネパールを訪れた際、王様のヘリコプターを自由に使える許可をもらうなど大きな支援者を得る事ができ、その後のヒマラヤ絵画の制作活動に大きな転機が訪れました。
ヒマラヤの取材にヘリコプターを使用するようになったとはいえ、ヒマラヤの取材は呼吸困難と高山病との闘いという命がけの取材となるのはこれまでと変わりはなく、福王寺法林は「ヒマラヤを描くことは、絵を描くのと命を交換するような気持ちである」と語りながらも多くのヒマラヤを題材とした作品を残しました。