日本の作家。
本名、吉川英次(ひでつぐ)。
1892年、神奈川県で生まれる。尋常小学校に通っていたものの、1903年に家運が傾き中退。その後、工員、商店員、給仕、店の小僧など職を転々とする。1910年、上京し蒔絵師の徒弟となる。そして雉子郎(きじろう)の名で川柳に投稿するようになり、何度か一等当選を果たす。青年期に川柳の世界に入ったことは、当時の庶民の風俗について学び、また文芸面での庶民的な発想を身につけることができ、その後の文学に大きくプラスとなった。
1914年に講談倶楽部の懸賞小説に応募していた時代小説「江の島物語」が一等当選となる。1921年、講談社の懸賞小説に応募した3編が入選。翌年に東京毎夕新聞社に入社する。
社命により初めて新聞連載「親鸞記」を無署名で連載する。以降、一誌に別名で六編を書くなどの健筆ぶりみせる。25年、キング誌が創刊され、「剣難女難」を発表。この時初めて吉川英治と署名する。これを機に注文が殺到するようになる。
1926年に大阪毎日新聞に「鳴門秘帖」を連載。これが人気を呼び、大衆歴史小説の第一人者となる。作品は空想力に富んだ伝奇物や幕末・維新時代のものなど幅広い領域を対象にしていたが、代表作といわれる「宮本武蔵」(1935年連載)では、社会の下積みから身を起こし、一歩一歩地に足をつけ、高みを極めるという、ひたむきな生きざまが描かれている。それは作者自身の人生であり、人生観でもある。以降の「新書太閤記」「新・平家物語」「私本太平記」の主人公像においても作者のその思いが託されている。
吉川英治の歴史小説は、単に歴史上の人物像にとどまらず、喜び、苦悩、悲しみなど、自分自身でもある大衆の生きざまを主人公に投影させ、主人公の人生に共鳴感をもたらせるという普遍性をもっており、その意味で国民文学の可能性を切り開いた作家として評価される。1962年9月、死去。享年70歳。