福岡県出身の昭和時代に活躍した日本の洋画家です。
風景画を多く制作している画家で、特に山岳風景を題材とした作品を多く描き、その中でも熊本の阿蘇山を題材にしたものが多く「阿蘇の田崎」と呼ばれています。
その作品は豪壮でたくましい山を表現しながらも温かみのあるユーモアを感じる事ができ、パリ留学で影響を受けた印象派・セザンヌと日本的油絵様式を調和させ、既存のどのジャンルにも当てはまらない独特の画風を作り上げていきました。
晩年では富士山を題材にした作品も手掛けており、特に赤富士の絵を数多く制作しています。
幼い頃から絵を描く事が好きだった田崎広助は、故郷の恵まれた山河などの大自然を駆け巡り、雄大な自然を相手に無心に絵を描き続けていました。
絵の才能は母親から受け継いだと田崎広助自身が述べており、「田崎広助」の広助は母親の実家が立花藩漢学者の家柄で「助広」と名乗っていた事が関係しており、「助広」をひっくり返して「広助」としたそうです。
しかし、中学時代では田崎草雲という雅号を使用しており、この雅号は幕末から明治初年にかけ、江戸在住の足利藩士で南画の達筆な同姓同名の人物がいた事が判明した上、草雲が没した年と田崎広助が生まれた年が同じだった事から「草雲の生まれ変わりに違いない」と言われたというエピソードが残されています。
画家の夢を持ったまま福岡の師範学校で学んだ田崎広助は県立高等女学校の教師ポストに空きが出て図画の教諭として採用される事になりましたが、そこへは向かわず、上京してしまいます。
この事に激怒した父親からは勘当を言い渡されていまします。
更に災難は続き、上京して本郷の駒本小学校にて図画の教鞭をとりつつ、絵の勉強に明け暮れていた中、関東大震災に遭い京都へ移り住む事になってしまいました。
京都でも図画教師のかたわらで関西美術学校で学ぶなど研鑽に励んでいましたが、結婚を機に画業に専念するようになり、渡欧します。
パリ、イタリア、スペインなどを巡り、絵を描く生活を3年間続け、サロン・ドートンヌに出品を重ねていました。
帰国後は日本画壇の重鎮として活躍を見せ、輝かしい功績を残しました。