草間彌生は長野県出身の彫刻家、画家、小説家、ファッションデザインなど多才なアーティストとして知られています。
作品は水玉模様が非常に特徴的で、見る者の視界が水玉で覆われるといわれています。
草間彌生は長野県松本市の裕福な家に生まれ、幼き頃から草花のスケッチを行っていました。
その一方で少女時代から総合失調症を患っており、幻覚、幻聴から逃れるために幻覚や幻聴を絵にするようになりました。
16歳になると第1回全信州美術展覧会に出品すると、並み居る顔ぶれの中で入選を果たしています。
松本高等女学校を卒業後、京都市立美術工芸学校に進学し日本画を学んでいましたが、古い体制の日本画壇に呆れ、松本の実家に戻り絵を描くのに没頭します。
地元の松本や東京で個展を開催していると、美術評論家の瀧口修造の紹介がアメリカへ渡るきっかけとなり、この頃は素描の他にもコラージュなども数多く制作しています。
草間彌生はアメリカに渡るとニューヨークに拠点を置き、ミニマルアーティストのドナルド・ジャッドやアッサンブラージュという技法の先駆者とされているジョセフ・コーネルらと親しくなりました。
草間彌生のニューヨークでの活動は絵画だけではなく、男根状のオブジェを既製品に張り付けた立体作品や空間全体を作品とするインスタレーションの他、ハプニングを称される過激なパフォーマンスも実行しヴェネチア・ビエンナーレにもゲリラ参加しており、前衛の女王と呼ばれるようになりました。
また平和や反戦運動にも携わり、自作の映画も制作し、複数の映画祭で受賞しています。
その後、親友でパートナーのジョセフ・コーネルがこの世を去ると体調を崩し日本に帰国後、入院しています。
それからは小説家としても活動しています。
1990年代初頭に草間彌生の活動が再び活発化します。
ヴェネチア・ビエンナーレに日本代表として参加してから世界的に再び評価が高くなります。
また商業分野でも活動が盛んになり、イーダブランドの携帯端末のプロデュースやルイ・ヴィトンとの共同コレクションを発表しています。
草間彌生はその後も精力的に活動し多くの賞を受賞しています。