茨城県出身の明治~昭和時代に活躍した日本画家です。
「朦朧体」という極力輪郭を取り除き、色彩によって表現するといった画風を追求し、海外で高い評価を受けた横山大観ですが、当初は「こんなものは絵画ではない」と酷評されていました。
昭和に入るとその評価が見直され、新日本画のパイオニア的存在として認められます。
そんな横山大観の脳は現在もアルコール漬けにされた状態で東京大学医学部に保管されているそうです。
元水戸藩士・酒井捨彦の長男として生まれた横山大観は、本名を秀麿といい、後に母方の親戚である横山家の養嗣子となり横山姓を名乗るようになります。
東京英語学校在学中に絵画に興味を持つようになった横山大観は、洋画家・渡辺文三郎から鉛筆画を学び、東京美術学校が開設される事を知ると受験するにあたり、結城正明から毛筆の日本画を学びました。
東京美術学校進学は父親の猛反対を受けており、実家からの援助は一切なく、卒業するまで書籍の図版を模写するアルバイトで生計と学費を立てていたそうです。
それでも東京美術学校での研鑽は楽しいもので、日本画の基礎はアーネスト・フェノロサに、 模写は橋本雅邦に教わり、岡倉天心からは一目置かれる存在となっていました。
卒業後は岡倉天心に委嘱されて帝国博物館の模写事業に従業し、京都市美術工芸学校教員、東京美術学校助教授として後進の指導にあたりました。
ちょうどこの頃、第一回日本絵画協会共進会展ではじめて「大観」の号を用いるようになり、画家として本格的に活動を開始しました。
そんな中、東京美術学校騒動によって岡倉天心排斥が起こり、橋本雅邦、菱田春草らと東京美術学校を辞職し、日本美術院の設立に参加する事になります。
菱田春草とともにインドに写生旅行へ出かけ、ニューヨーク、ボストン、ロンドンなどで二人展を開催し、高い評価受けると帰国してからも菱田春草と連名で著書を刊行するなど日本画に対しての新しい表現方法を訴え続けました。
一方で横山大観が活躍していた日本美術院は経済的に破綻をきたしており、岡倉天心の勧めで研究所を茨城県五浦に移し、貧困に悩みながらも「朦朧体」という新技法を追求していきます。
その後、文展が開催されるようになると審査員に推挙されますが、数年後には除名となり、木村武山、下村観山、今村紫紅らとともに日本美術院を再興し、院展の中心的画家として毎年作品発表を続け院展の重鎮画家として活躍しました。
横山大観は大変な酒好きで知られており、人生後半は飯を口にする事はほとんどなく、酒と肴(少量の野菜)だけで済ませていました。
その飲んでいたお酒は広島の『醉心』で、これは昭和初期に醉心山根本店の社長・山根薫と知り合い意気投合した事で「一生の飲み分を約束」され、無償で山根薫から贈られていたもので、横山大観は代金のかわりとして毎年1枚ずつ自分の絵を無償で送っていました。
これが後に醉心酒造に横山大観記念館を建立するきっかけとなったそうです。