京都府出身の明治~昭和時代に活躍した女性の日本画家です。
女性の目から見た美人画を得意としており、女性が画家として成功するのは難しいと言われていた時代において、見事日本画壇の中心的存在となった事で知られています。
また、女性初の文化勲章受章者としても知られており、女性が日本画界で活躍するための活路を開きました。
京都の下町で育った上村松園は本名を津禰(つね)といい、幼い頃から絵を描く事が大好きで、京都に開校したばかりの日本最初の画学校に12歳の時に入学しました。
しかし、カリキュラム優先の学校よりも尊敬する師匠のもとで学ぶ方が身になると思い、翌年には画学校を退学し、そこで師事したのが鈴木松年でした。
鈴木松年は鈴木派の祖といわれる鈴木百年の息子で、勁健・豪放な作風で知られています。
そんな鈴木松年のもとで画家としての才能を開花させていった上村松園は、鈴木松年から「松園」という号を与えられました。
そして、新たな画法を学ぶために様々な師のもとで研鑽を積んでいった上村松園は京都画壇の中心人物である竹内栖鳳に師事した事で、表現が広がり、受賞を重ねていきました。
順調に画家として成功をおさめていく上村松園ですが、当時の日本では「女性は嫁に行き、家を守る事が美徳」とされていたため、世間から見れば上村松園のやっている事は批難の対象となりました。
日本画壇での名声を高めていく一方で、ライバルの男性画家たちからは激しい嫉妬と憎しみを受け、通常であれば精神的に耐えられるものではありませんでした。
しかし、上村松園には母親という強い存在がありました。
上村松園の母親は父親が亡くなってから女手一つで上村松園とその姉を育ててきた人物で、上村松園が画家として活躍する事に理解を示し、励まし続けてくれました。
そのおかげで上村松園は明治時代の女性でありながら、画家として成功を収める事ができたのです。
その後母親を亡くした上村松園は「母子」「青眉」「夕暮」「晩秋」など母を追慕する格調高い作品を描き、高く評価されています。
そんな上村松園ですが、27歳の時に妊娠し、出産します。
この出産は未婚の母という、これもまた明治の女性としては世間から冷たい視線を浴びせられほどの出来事でした。
父親は家庭のある人物だという事で上村松園も子供の父親については多くを語っていません。
母親になったからといって上村松園は画家としてのストイックさを捨てる事はなく、むしろ家庭を顧みず、画の世界に没頭していきます。
しかし、世間は上村松園を素直に認める事はなく、展覧会に出品中だった「遊女亀遊」という作品に落書きがされるという事件が起こり、展覧会の職員から絵をどうするか聞かれた時、「そのまま展示を続けて下さい。この現実を見せましょう...」と語り、落書きされた作品を展示続けたそうです。
精神的に参ってしまうような出来事でしたが、上村松園の中には女性が画家として成功するという強い意志が感じられ、何があってもその思いは揺らぎませんでした。
しかし、40代に入って年下の男性に恋心を示しますが、大失恋に終わり、これをきっかけにスランプに陥ってしまいました。
鋼の精神力を持っていた上村松園も、心の奥底に渦巻く黒いものを作品に吐き出す事となり、完成した作品が光源氏の愛人・六条御息所が、正妻の葵上に嫉妬して生霊となった姿を描いた「焔」でした。
この作品は清らかな美人画を描き続けてきた上村松園にとって初めての清楚で綺麗な女性像ではない女の怨念の世界を描きだしたもので、皮肉にもこの作品が上村松園の評価を高める事となりました。
しかし、しばらくは作品を展覧会などへ出品する事はなく、上村松園自身も「焔」は「なぜこのような凄絶な作品を描いたのか自分でも分からない」と語っています。