京都府出身の昭和時代に活躍した日本画家です。
京都写生派の流れに立った写実を発展させ、対象の内観まで入り込んだ作品全体に深い印象を与える繊細な地塗りを特徴とした「神泉様式」と呼ばれる独自の画風を築いた事で知られています。
幽玄かつ象徴的な日本画は戦後の日本画に大きな影響を与えた事で知られています。
徳岡神泉は本名を時次郎といい、土田麦僊の紹介で竹内栖鳳の画塾竹杖会に入り、本格的に画を学びました。
翌年には京都市立美術工芸学校絵画科に入学し、卒業までの4年間に金牌、銀牌を獲得するなど優秀な成績を修め卒業制作は京都市立美術工芸学校買い上げとなりました。
更に画技を磨くために京都市立絵画専門学校へ進学し、画家としてエリートコースを進む徳岡神泉ですが、思わぬ壁にぶつかってしまいます。
当時の京都画壇では官展に入選する事が画家としての第一歩と考えられていたため、徳岡神泉も学校に在籍していた時から文展へ出品をしていましたが、ことごとく落選していました。
周りの同級生は次々と入選し、画家としての一歩を踏み出す中、徳岡神泉は芸術に対する煩悶から孤独になり、人に会うことすら嫌になってしまいます。
そのため、この頃の徳岡神泉は妙心寺などの寺を転々とし、第1回日本無名展で褒章を受けるも自身の心の回復には至らず、京都を離れ富士山麓の岩淵で制作活動を行うようになり、号を「俊成」としました。
結婚を機に「神泉」と号するようになるとはじめからやり直すことを決心し、京都に戻りました。
ちなみにこの「神泉」という号は名園として知られる京都市中京区にある東寺真言宗の寺院・神泉苑が由来となっています。
京都に戻ってからは帝展で初入選を果たす事ができ、これは帝展に初出品してから12年の歳月を経ての事でした。
そこからは次々と受賞を重ね、帝国美術院無鑑査の資格を得るなど画家としての地位を得ると自信を取り戻していきました。
その後も新文展で活躍をみせ、作品が文部省買い上げとなった頃、「神泉様式」とも呼ばれる独自の画風の確立が見え出し、戦後は日展を中心に活躍し、神泉の代名詞とも言える繊細な地塗りの効果がみられるようになり「神泉様式」は確立しました。