岡山県出身の日本画家で、本名を池田昇一といいます。
画家としての生涯の中で、様々な人物に影響を受ける度に画風を変化させていった画家として知られています。
17歳の時に大阪へ出て松原三五郎が主宰する天彩画塾に入門し洋画を学び、第8回文展に水彩画「みなとの曇り日」を出品すると見事入選を果たします。
これは18歳という若さでの入選という事もあり、天才少年画家として注目を浴びました。
その後、京都の竹内栖鳳の竹杖塾に入門し、日本画へ転向します。
日本画に転向してからは第1回帝展で初入選を果たすと以後、連続して出品を重ね活躍します。
また、京都市立絵画専門学校や京都市立外国語専門学校でも学んでおり、この頃にムンクやゴヤに影響を受け、人間の死や病といった生命感を内包する作品を展開するようになります。
昭和に入ると大和絵の新解釈にたった清新な作風を見せるようになり、一時、画壇からその作風が否定されていましたが、これをきっかけに再び画壇に認められ、受賞を重ねるようになります。
また、江戸時代の浮世絵師・歌川広重に強く影響を受け、東海道を徒歩で写生旅行し、浮世絵風の作品も残しています。
戦後になると装飾性やユーモアに富んだ独自の表現が目立つようになり、円山応挙以来脈々と受け継がれてきた京都派の写生的なこだわりが見えなくなります。
晩年では俳人・種田山頭火に心を寄せ、その句境の絵画表現に挑んだ「種田山頭火シリーズ」を手掛けるようになり、旅をする時は種田山頭火の姿で旅をしたとされています。
画家としての情熱は年を重ねても衰える事はなく、種田山頭火の句を並べては「これらを描き終えるには125歳まで長生きしなければ」と制作意欲を見せていましたが、93歳の誕生日を目前にこの世を去ってしまいました。
また、倉敷市立美術館には出生当時の本籍地という事から池田遙邨本人から作品を寄贈されたものが展示されており、遺族からも寄贈を受け、現在では8000点を越えるコレクションを収蔵しています。