熊本県出身の昭和時代を代表する日本画家の一人として知られ、写生の基本に戻った精緻な花鳥画や鯉などの魚類に秀作が見られます。
晩年までその創作意欲は高く、停電によって暖房が使えず、風邪をひいた事で肺炎を患い寝込む直前まで絵筆をとっていたそうで、実に多くの作品を残しています。
熊本県の油などの製造卸売をしていた家に生まれましたが、幼い頃に両親が相次いで亡くなり、祖父に育てられました。
家業の経営は傾いており、「日本美術」「国華」などの木版印刷の口絵を模写したり、梶田半古、鏑木清方の挿絵を写すなど苦学しながらも絵画の勉強に励み、はじめは郷土の画家であった福島峰雲に師事しました。
その後、同郷である高橋広湖に師事し、文展に初入選を果たしてからは日本画家としての頭角を現していきます。
出品作品は初期の頃は歴史画が多く、今村紫紅らが推し進めた色彩美を重んずる新感覚的画風への接近を示す作品を発表するようになり、横山大観の目に留まりました。
しかし、この事が審査を巡って横山大観以外の審査員と意見が食い違いとなり、横山大観は文展審査員を辞める事になります。
こうして横山大観は日本美術院を再興し、堅山南風も日本美術院へと活動の場を移しましましたが、スランプに陥り、思うように絵が描けず、前田青邨や安田靫彦の影に隠れた存在となってしまいます。
何を思ったのかインドへ渡り、写生の基本に戻る事に活路を見出した堅山南風は、花鳥画を得意とするようになり、第9回院展出品作品「桃と柘榴」には作品の充実度を見る事ができるようになりました。
戦後は日本美術院会員として活躍を見せ、日展では審査員・参事などをつとめ、日光東照宮本地堂の天井画を復元するなど、大きな功績を残しました。