京都府出身の昭和~平成時代に活躍した日本画家です。
現代日本画の重鎮的存在であり、日本画革新の旗手として、斬新な発想と動的な描写で活躍しました。
日本国内での活躍はもちろんの事、第2回グッゲンハイム賞国際美術展に出品した事をきっかけに海外での日本画の展覧会に招待作家として出品を重ねるなど、海外での活躍も目立ちました。
また、日本国内の様々な芸術家とのコラボレーションをはじめ、BMW525iのアートカープロジェクトに参加し、日本の伝統技法「截金」をBMWの車体全体に施したことで話題を呼ぶなど、日本の伝統的芸術というものを世界へ広める事へも貢献しています。
そんな加山又造は京都四條派、円山派に学んだ絵師・田辺玉田を祖父に持ち、父親は西陣の衣装図案師として活躍し、若くして多くの弟子を抱える工房を営むという家庭環境で生まれました。
そのため、幼い頃から父親や弟子たちの仕事を見て過ごし、仕事のために集められた様々な図案集や画集を絵本代わりに読んでいました。
こうしてそれらを真似て絵を描くようになった事から日本画家を目指す事となり、東京美術学校へ入学します。
しかし、東京美術学校在学中に父親が亡くなり、通常であれば家に戻る事を選択する者がほとんどなのですが、加山又造はアルバイトをして家に仕送りをしながら学業を続けました。
この事からも加山又造が日本画家に対しての強い思いが伺え、それは卒業後にも東京美術学校で指導を受けていた山本丘人に師事して更に画技を磨いていた事でも分かります。
こうして日本画家としてスタートを切ると創造美術に出品しますが落選となってしまいます。
その後、研究会に参加し、出品を続けると2度目の出品で入選を果たし、その後は順調に画家として進み始めました。
横山操、石本正と共に轟会を結成し、日本画の革新を目指して互いに切磋琢磨しながら意欲的な活動を続け、多摩美術大学教授に就任してからは後進の指導に尽力しており、学生と過ごす中で新しい発見をしてはそれを作品に反映させていきました。
中国北京の中央美術館、またイギリスの大英博物館において大規模な個展を開催し、身延山久遠寺本堂及び天龍寺法堂に巨大な天井画を残すなど、その活躍は亡くなった現在でも語り継がれています。