大正から昭和初期にかけての歌人、アララギの中心人物。精神科医でもある。
1882年5月、山形県の守谷家の三男として生まれる。15歳の時に親戚の医師・斎藤紀一に招かれ上京する。第一高等学校を卒業後、正式に斎藤家の養子となり、東京帝国大学医科に入学する。卒業後は生涯にわたり精神科医を生業とした。
短歌については高等学校時代から歌作を始め、大学在学中に伊藤左千夫を中心に刊行されていた雑誌「馬酔木」(あしび)を購読し、やがて左千夫に入門する。以後「アカネ」「馬酔木」に寄稿しつつ、左千夫が創刊した「アララギ」の編集にも携わる。
1913年、歌集「赤光」(しゃっこう)を刊行。とくにこの中に収められた「死にたまふ母」「おひろ」の二大連作によって高く評価され歌人として広く知られるようになる。その後、ドイツに医学留学したり、帰国後は病院再建などに奔走した時期もあったが、1929年に「アララギ」に「短歌に於ける写生の説」を発表し、実相観入を主張し、正岡子規の純粋客観描写の写生説をさらに深めていった。
昭和期に入ると柿本人麻呂に関心を持ち、大著「柿本人麿」五巻を著わし、これは学士院賞を受賞した。1945年、郷里に疎開。49年に敗戦にあった悲痛の情を詠んだ「白き山」を刊行する。
1953年2月、逝去。享年71歳。
茂吉の作品は一貫して悲劇性、重厚なリアリズム、あふれる生命感を醸し出している。およそ50年の歌歴のなかで17冊の歌集に約18000首の歌を残し、さらに随筆、評論、研究など広い分野にわたって活躍し、近代短歌史においてまさに大家と呼ぶにふさわしい業績を残す。