島根県出身の昭和時代に活躍した日本画家です。
花鳥、人物などを主に描いた作品が多く、中でも舞妓をモチーフとした作品は強い線描による明快な色彩感覚で彩られた画風と計算された構図が素晴らしく、「明治様式」と呼ばれ高い評価受けています。
絵や俳諧の趣味を持つ祖父に強く感化されて育った橋本明治は、妹をモデルに描いた「ガラシャ婦人像」という作品が島根県展で入選を果たした事をきっかけに画家になる事を決意しました。
川端画学校に入学するまでに父親をはじめ祖母などの家族を失い、画家を志すのを辞めようかと思った時期もありましたが、東京美術学校日本画科に入学しました。
同期に東山魁夷、加藤栄三らがおり、松岡映丘にも学び画技を高めた結果、在学中に帝展に出品した作品が初入選を果たすと翌年にも入選となる快挙をみせます。
東京美術学校を主席で卒業するまでの技量を身につけ、その後も同校の研究科へ進み、郷里の医師・浜田温の援助を受けながら制作活動を続け、創造美術結成に参加しましたが、数年後には退会し、再び官展に戻り日展を制作発表の場としていました。
法隆寺壁画模写では36歳という若さで主任を務めるという名誉をつかみ、金堂が一度焼失した時にも再現模写に参加しています。
こうして画家として名声、技量ともに高めていった橋本明治ですが、著名人をモデルにした話題作を数多く発表しており、貴ノ花をモデルにした「関取」、三笠宮寛仁をモデルとした「球」、松下幸之助をモデルとした「砕」「想」などが知られています。