兵庫県出身の昭和時代に活躍した日本の洋画家です。
卓越されたデッサン技術を基本に油彩を追求し、中でも清楚な女性像や女性群像を多く手掛けている事で知られています。
小磯良平が亡くなってからの事になりますが、画業を称えて国内最高賞金の公募展「小磯良平大賞展」が創設されており、それほど日本の美術界に大きな影響を与えた事が分かります。
小磯良平は旧三田九鬼藩の旧家で貿易に携わっていた岸上家の次男として生まれましたが、小磯家に養子として入り小磯姓を名乗るようになりました。
幼い頃に異国情緒あふれる神戸の街並みを見て絵を描く事が好きだった事もあり、画家を志して東京美術学校西洋画科に入学しました。
この時の同級生には猪熊弦一郎、岡田謙三、荻須高徳など日本の洋画壇を語る上では欠かせない人物たちがいました。
才能溢れる同級生たちと切磋琢磨し、画技を磨いた小磯良平は在学中に帝展に出品します。
この作品はとても画学生が描いた作品とは思えないほど完成度が高く、小磯良平の名前は注目されました。
首席で東京美術学校を卒業した小磯良平は、フランスへ留学し、ルーブル美術館にあるパオロ・ヴェロネーゼの「カナの婚礼」に衝撃を受け、群像表現を極めることを生涯のテーマに決めます。
帰国すると新制作派協会の結成に加わり、画家として活動を続けました。
画家として順調な日々を送っていた小磯良平ですが、戦争によってその平穏な日々は失われていまいます。
戦意高揚のために従軍画家として中国へ渡り、精力的に戦争画に取り組むようになりました。
後に戦争画を描いていた事に心が痛むと語っており、戦争とは人の心も狂わせてしまうものというのを痛感したそうです。
戦後は東京藝術大学教授などをつとめて後進の指導にあたり、定年退官後も赤坂の迎賓館大広間の壁画「絵画」「音楽」を制作するなど長きにわたり日本の洋画界に大きく貢献しました。