東京都出身の大正~昭和時代に活躍した日本の洋画家です。
岸田劉生、ポール・セザンヌ、アメデオ・モディリアーニ、パブロ・ピカソ、アンリ・マティス、ベルナール・ビュッフェなどの影響が見てとれる作品が特徴で、初期の頃は絵具を薄く塗る傾向が強い作品を展開していましたが、戦後からは絵具を盛り上げて原色を多用するフォービズムのような作品へと変化しています。
また、サインには「Takeshi・H」もしくは「Take・H」と記されている事が多いのも特徴です。
晩年に描いたバラや富士山をモチーフとした作品は現在も高い人気を誇り、中古市場でも高値で取引されています。
代々続いた国語学者の家に生まれた林武は本名を武臣といいます。
父親は研究に没頭し、家庭を顧みなかったため幼い頃から家計は苦しく、幼い頃から兄たちと牛乳配達など行い家計を助けていました。
雪の降る日は凍傷によって手足に激痛が走り、その痛みに耐えながら牛乳を積んだ重い荷車を引くなど自分の事より家庭を大事にしていた林武は、早稲田実業学校に入学した後も家のために勉学に励みながら労働を続けた結果体を壊し、学校を中退する事になりました。
体調が回復すると家のしがらみを捨て、画家になる事を志して日本美術学校に入学しますが、画家として生きていく事に決心がついていなかったため、一年で美術学校を辞めてしまいます。
しかし、結婚を機に妻のために画家として頑張ろうとしていたが、目の前の大きな壁を打ち破る事ができず一番大事だった絵を捨てる決意をした時、林武の中で何かが弾け、画業に専念するようになりました。
林武と深い仲であった東郷青児は、林武は本来「慈母のような沈静な美を表現する画家だったのに、間違って無理な激しさを追求する画家になってしまった」と述べており、林武の代表的な絵具を盛り上げて原色を多用するフォービズム的な作風は、本人が好んで描いていたものではなく、周りから期待され、描かざるを得なかったのではないかという見方もあるそうです。