和田英作は鹿児島県出身の画家で、政府主催による官展での活動に重きを置いていた事で、「官展の重鎮」という異名を持つ事でも知られています。
和田英作は幕末期の薩摩藩士で、日本の社会福祉事業のパイオニアとして知られている和田秀豊(わだしゅうほう)の長男として生まれました。
父が海軍兵学校の英語教師に就任した事で、4歳の頃に家族そろって上京します。
プロテスタント系のキリスト教主義の学校の一つである明治学院を卒業し、東京美術学校に入学しました。
東京美術学校では、曾山幸彦、原田直次郎、黒田清輝、久米桂一郎、久保田米遷などに師事して洋画のみではなく日本画も学びました。
当初、和田英作の作品は明治美術会系の暗い画面構成でしたが、黒田清輝と久米桂一郎が開いていた天真道場で大きな影響を受け、明るい色彩効果を追求するようになります。
その取り組む姿勢が認められ、黒田清輝などを中心とした、ヨーロッパの芸術思想と技術を基礎とした白馬会の結成に誘われます。
また、この頃に開設された東京美術学校西洋画科の助教授に招かれますが、しばらくしてから助教授を一旦辞して同学校同科に編入学し、卒業制作で自身の代表作となる『渡頭の夕暮』を生み出しました。
26歳の頃、文部省留学生としてフランスに渡っており、黒田清輝が師事していたラファエル・コランに学び、伝統的な様式を修得します。
そしてパリ万国博覧会に出品し、褒状を授与されるなど充実した月日を過ごしました。
帰国するとアール・ヌーボースタイルでデザイナーとしても才能を発揮し、東京美術大学教授に招かれると多くの後進を育てました。
また、当時の文部省が大学生のカフェやバーへの立ち入りを禁じた際に、「酒と女は美術には必要」だと美術学校の例外措置を提案したという逸話も残されており、教育者としても高い評価を得ています。