熊本県出身の日本の洋画家です。
風景画の作品が多く、特に水のある自然風景を好んで描いており、柔らかな線と穏やかな色彩が特徴です。
また写生をもとにデフォルメを加えた独自の形態と淡い色調も特徴で、同じ風景が数多く繰り返し描かれている作品も存在します。
中学校を卒業すると画家を志して上京し、葵橋洋画研究所で洋画を学び、東京美術学校を受験しますが3度失敗しています。
やっとの思いで東京美術学校に入学し、岡田三郎助の教室に所属していましたがほとんど学校へ行かず、校外で制作活動を行う事が多かったそうです。
東京美術学校を卒業すると同級生であった荻須高徳や猪熊弦一郎らと共にグループ「上社会」を結成し、帝展で初入選を果たします。
それからは画家としての才能を開花させていき、数々の賞を受賞する実力画家へと成長します。
しかし、日展などにいくら入選しても絵を売る事はなく、華やかな場に参列する事も少なく、「画家とは名誉ではなく描き続けることである」という立場を貫きました。
そのため、家族には「絵具とカンバスと、雨風しのげて目と手があれば絵は描けるんだよ」と言い続けていたそうです。
牛島憲之は熊本県の裕福な地主の息子として生まれたため、東京藝術大学の講師になるまでは「勤め人」になった事がなかったそうですが、しっかりと後進の指導にあたっており、14年間も指導を続けました。
東京で活躍を見せるようになってからは世田谷区に住んでいましたが、多摩川近郊や府中市によくスケッチに出かけていたため、東京都府中市にある府中市美術館に遺族が寄贈した作品100点が収蔵されています。