岡山県出身の明治~昭和時代に活躍した日本の彫刻家です。
リアリズムを追求した超写実的な作風が特徴で、20年以上の年月をかけて制作された代表作の一つである『鏡獅子』などはその集大成と評価されています。
東京美術大学教授をつとめ、日本の美術彫刻界に大きな功績を残した事で文化勲章を受章しました。
岡山県の田中家で生まれた平櫛田中ですが、幼少期の頃に広島の平櫛家の養子となり、平櫛倬太郎(本名)となりました。
そのため、平櫛田中という号は旧姓の田中が由来となっています。
はじめは大阪の人形師・中谷省古に弟子入りして木彫の手ほどきを受け、上京してからは高村光雲の門下に入りました。
高村光雲のもとで本格的に木彫を学んだ平櫛田中は、日本美術協会展で銀牌を受賞し、その後も文展、日本彫刻会などで受賞を重ねていきます。
その実力は日本芸術院会員、帝国芸術院会員に推挙されるほどで、日本彫刻界の中心作家として活躍を見せました。
その一方で、岡倉天心や臨済宗の高僧・西山禾山の影響を受け、仏教説話や中国の故事などを題材にした精神性の強い作品も手掛けるようになります。
昭和時代に入ると木彫作品に彩色を施す事を試みるようになり、伝統と近代の表現を融合した作品の可能性を導き出そうと尽力しました。
また、平櫛田中の出身地である岡山県井原市が主宰して平櫛田中賞を設け、現在でも近代彫刻家たちの名誉ある賞として、毎年受賞者が選ばれています。
100歳を超える長命であった平櫛田中は、30年かかっても使いきれないほどの材木を所有していたそうで、これはいつでも制作に取りかかれるようにと、金銭的に余裕がある時に買い置きし続けた結果だったそうです。
また、彫刻刀の切れ味には人一倍こだわりを持っていたため刀匠に彫刻刀・小刀の製作を依頼していました。
後に重要無形文化財保持者となる宮入行平にも依頼しており、当時の宮入行平の作品は満足したものに仕上がらず、その作品は全て突き返して愛弟子を育てるかのように徹底的に刃物について教え込んだそうです。
宮入行平が重要無形文化財の指定を受ける事ができたのも、平櫛田中の力添えがあったからと言っても過言ではないのかもしれません。