十五代千宗室 文化勲章 紫綬褒章 藍綬褒章 受章
十五代千宗室は茶道界では初の文化勲章を受章しています。
家元を長男に譲った後も活発に活動しており、御年99歳ながら現在も裏千家の顔として、さらに茶道の枠を超えた日本文化の象徴的存在です。
十五代千宗室
400年以上の歴史を持つ裏千家14代家元・碩叟宗室 (淡々斎宗室) の長男として生まれた千 政興(せん まさおき)は、15代を次ぐべく6歳から稽古を初め厳しく育てられました。
同志社大学に入学した1941年、12月に日米が開戦します。
20歳になると自ら志願し学徒出陣となり、1945年3月に飛行機ごと敵艦に突っ込む特攻隊に選ばれ、覚悟を決め特攻を熱望しました。
特攻隊の仲間達のリクエストに応じて、携帯用茶道具と配給の羊羹で茶会を開き、「生きて帰ったら、おまえのところの茶室で飲ませてくれるか」と聞かれた時、自分達は死ぬのだ、と感じたそうです。
作戦は決行され、死地に赴く仲間から「おい千よ、靖国で待っとるぞ」と言われ、千政興も後から行くと約束しましたが、直前に千政興のみが待機命令を受け外されました。
理由も告げられず、出撃したいと懇願しても叶わず、自分だけが生き残り、犠牲になった戦友達への罪悪感に苛まれ苦悩し続けます。
そのまま終戦となり帰郷、そして父・十四代淡々斎が茶道を習いに来た米軍将校に流暢な英語で厳しく指導している姿を見て、複雑な思いを抱きました。
しかし戦勝国の兵が真摯に敗戦国の日本の茶道に向き合っている情景に、ある種の敬意と憧憬の念を抱き、文化の力の強さを実感し、千家の継承者としての自覚を持つことになります。
そんな頃、米軍のダイク代将が早稲田大学で公演を行い
「日本がアメリカの民主主義を学ぶことは重要だが、日本にも民主主義は昔からあった。茶道では一碗のお茶を頂く とき、身分の上下は一切なく、武士といえども刀を腰から外し、低頭して茶室に入った。茶を心得ている人が正客と なって他の連客を導く。ここに平和な民主主義があったのだ。」
と説いていました。
千政興はすぐにダイク代将に手紙を書いて、その茶道をアメリカの人々にも知ってもらい、日本人が平和を望んでいることを理解してもらう為に渡米を許して欲しい、と訴えます。
その願いは聞き入れられ、1951年、まだパスポートもない時代にハワイを訪問、苦戦しながらも表千家の海外支部第1号、続いてサンフランシスコ、ロサンゼルス、ニューヨークなどにも海外支部を設立しました。
この経験を活かし、60数カ国、350回以上の渡航を行い、海外支部を世界30数ヵ国100ヵ所ほどに拡大させ、茶道とその精神を世界中に広めた功績者です。
1964年に十五代千宗室を襲名し、2002年には長男に家元を譲り千玄室(せんげんしつ)に改名しました。
その活動は茶道のみならず、ユネスコ親善大使、東京五輪・パラリンピック大会組織委員会の顧問、国際博覧会誘致特使(2025年)など世界親善の役職や、企業・団体の名誉職で100以上の肩書を持ち、100歳を目前にした現在でも年齢を感じさせない活躍と影響力を見せています。
一盌(いちわん)からピースフルネスを
十五代千宗室は戦争で生き残された意義を探し続け、茶道は世界平和の架け橋になると気付き、その精神である『和』の思想を国際的に広める道を見出しました。
『一盌からピースフルネスを』の理念は、丸いお茶碗は地球、そしてお茶の緑は自然を表し、その中で暮らす人たちはみんな一緒の人類、地球人です。狭い地球の中で何を争っているのですか、見知らぬ者同士でもちょっとした一言で結ばれてこそ安らぎが生まれる、と伝えています。