明朝時代末期から清朝時代初期に活躍した書家・画家です。
字(あざな)は覚斯または覚之で、号は嵩樵、癡庵などがあります。
字とは昔の中国で成人男性が実名以外につけたあだなのようなもので、号は画家・文人・学者などが本名の他につける名の事です。
王鐸は30歳で進士の試験に合格し、明朝に仕え翰林院に入って順調に出世した人物で、背が高く立派な長い髭を持ち、いかにも中国の長官にふさわしい風貌であったと伝えられています。
学問では特に歴史に優れ、清朝では明史編纂の副総裁を任せられ、王鐸と同年の進士には倪元璐と黄道周がおり、3人はともに翰林院に入り意気投合して学問を研鑽し合っていたそうです。
また、清朝にも使えていた事から悪者扱いされている部分もあります。
そんな王鐸ですが、書を学び始めたのは10歳前後からだといわれ、詩文書画を好み、一時途絶えていた文字学を研究しました。
長条幅への連綿草や長巻に傑作が多く、王鐸の書法は「行草条幅制作の最上の指標」と高く評価され、広い地域で多く学ばれています。
詩文書画でも知られていますが、書名は特に高く、有名な書画家・董其昌と比肩するといわれ、自由奔放で感情に富んだ書に人気が集まっています。
王鐸には不思議な部分があり、詩人としての腕前も確かなものでしたが、自分の詩を草書で書いた事はなく、「擬山園選集」など大部の詩集もたくさん残していますが、そのほとんどが行書作品となっており、草書は王羲之(おうぎし)また王献之(おうけんし)などの臨書で見る事ができます。
また、山水画も得意としており、花鳥画、四君子など当時主流の南画に抵抗していたため、荊浩、関仝を範とした墨調の強い作品を描いていました。