王羲之を買取ります
王羲之は中国東晋時代に活躍した政治家、書家で、字(あざな)を逸少といい、右軍将軍となったことから「王右軍」とも呼ばれています。
また、従来の中国での書法や芸術性を高めたとして「書聖」とも呼ばれています。
本籍は琅邪郡臨沂(現在の山東省臨沂市)と記録には残されており、曾祖父は王覧、祖父は王正、父は王曠である事が記されています。
王羲之の末子の王献之も書に才能を見せており、王羲之が大王、王献之が小王として合せて「二王」と称され、伝統派の基礎を形成し、後世の書人に大きな影響を与えています。
王羲之は魏晋南北朝時代を代表する門閥貴族、琅邪王氏の家に生まれ、東晋建国の元勲であった同族の王導や王敦らから一族期待の若者として将来を期待されていました。
東晋の有力者である郗鑒の目にとまり、婿として迎えられ、もう一人の有力者であった征西将軍・庾亮からは征西将軍府参軍に参加するようお願いされる事もありました。
朝廷の高官から高く評価されるようになると中央の要職に任命されるようになりますが、王羲之は就任を固辞していました。
しかし、友人の揚州刺史・殷浩による懇願を受け、ようやく護軍将軍に就任する事になりますが、その空気に馴染めず、地方転出を希望し、右軍将軍・会稽内史となり、会稽郡治の山陰県に赴任しました。
この地は山水に恵まれた土地であった事から、王羲之は大変気に入り、この地を終焉の地と決め、当地に隠棲中の謝安や孫綽・許詢・支遁ら名士たちとの交遊を楽しむ傍ら、会稽一帯が飢饉に見舞われた時は、中央への租税の減免を要請するなど、地方行政にも力を注ぎました。
しかし、不仲であった王述が会稽内史を管轄する揚州刺史となると、王述の下となる事を恥じた王羲之は会稽郡を揚州の行政機構からはずすよう要請しますが却下され、王述が会稽郡にさまざまな圧力かけるようになるとその圧力に嫌気がさし、病気を理由に官を辞して隠遁しました。
隠遁後も会稽の地にとどまり続け、当地の人士と山水を巡り、仙道の修行に励むなど悠々自適の生活を過ごしたそうです。
そんな王羲之の書ですが生前から高い評価を受けていましたが、没後も歴代の皇帝に愛好され、中でも唐の太宗皇帝は熱心な収集家として知られています。
太宗皇帝は全国に散在する王羲之の書を収集し、宮中に秘蔵するとともに精巧な複製を作らせ、太宗皇帝が亡くなるとその全てを自分と一緒に埋葬してしまいました。
また、中国のこれまでの戦乱によって王羲之の真筆は全て失われたとされており、現在、王羲之の書とされているものも唐代以降に模写したものと、石版や木板に模刻して制作した拓本のみとなっています。