中国清朝中期に活躍した政治家で、書家・書学者・文学者としても活躍した事で知られています。
字を正三、号は覃渓、蘇斎などがあり、金石の学における研究の先駆けとしても知られ、その考訂の精密さに定評があり、「石経残字考」「両漢金石記」などの著作を残しています。
北京の順天府大興(じゅんてんふたいこう)出身で、早くから早熟な天才で知られており、20歳の時に科挙に及第し、進士となり、高級官僚として役職を歴任し、乾隆帝の国家事業である「四庫全書」の編纂に参画して四庫全書纂修官(しこぜんしょさんしゅうかん)となり、内閣学士までのぼりつめた事で知られています。
また、多くの俊英を育てており、銭大昕・黄易らと交流しており、経学・史学・文学にも詳しかったそうです。
翁方綱の書はすべての書体に優れており、劉墉・梁同書・王文治らと帖学派の四大家と呼ばれています。
しかし、楷書・行書の作品は多く見られますが、隷書はほとんど見る事ができません。
翁方綱の書は、はじめは顔真卿(がんしんけい)に学び、次いで歐陽詢(おうようじゅん)に学んだとされており、現在の書画を学ぶにあたって初唐の楷書を尊重して学ぶ事に力を入れているのは、翁方綱の「化度寺碑」「九成宮醴泉銘」「孔子廟堂碑」の三つを唐の楷書の最上のものとした考えが影響しているとも言われています。