山西陽曲(現・山西省太原市)出身の明朝時代末期~清朝時代初期に活躍した中国の書画家です。
明王朝が滅亡した後も道士として各地を放浪し、新しくできた清王朝に仕えなかった事で知られており、画人としては山水・墨竹を得意とし、書家としては隷書と金石の篆刻に通じている事から趙執信によって「本朝第一」と推奨された人物として知られています。
虞世南の楷書、そして顔真卿の書を学び、篆書、隷書など各書体に優れた作品を残し、特に長条幅の連綿草は高く評価されています。
代々学者という家系に生まれた傅山は幼い頃から本を熟読し、一度目に移った文字は必ず暗唱するという才能を見せていました。
そのため15歳の頃にはその才能を発揮し、三立書院で袁継咸の門下生の第一に抜擢されるほどになります。
明朝時代では博学として有名でしたが、明王朝が滅んでしまうと遺民として清王朝に反抗の意を見せていました。
それでも清王朝は傅山の才能を欲し、無理矢理北京へと連れていき、官位を与えて清王朝の臣下にとり込もうとしましたが、それは失敗に終わりました。
同時期に活躍した書家・王鐸も傅山と同じ境遇にありながら、清王朝と共に生き、自らの芸術を昇華させようとしたのに対して傅山は、最後まで清王朝に反抗した忠義を大切にする人として中国では王鐸より傅山の人格や書を一段高く評価している部分があります。
そのため、傅山と王鐸は比べられる事も多く、王鐸が明王朝が滅びた悲しみ、寂しさといったものを吹っ切り己の芸術の完成を目指したのに比べ、傅山は心の中に渦巻く割り切れない思いを連綿草の中に狂ったように筆に託しているという評価を受けていますが、動乱の中、自らの芸術を貫き通した事は傅山も王鐸も信念は同じだったという事です。