何紹基(カショウキ)を買取ります
何紹基(カショウキ)とは中国・湖南省道州出身の詩人・学者・能書家で、号は東洲、蝯叟といい、蝯叟の「蝯」とは手の長い猿の事で、書を書く時に強い弓を引くように思い切り腕を伸ばして書いていた事に由来しています。
父親は戸部尚書をつとめた何凌漢で、その長男として生まれた何紹基は父親から家に代々伝わっていた唐の顔真卿の筆法を教わりました。
何紹基の兄弟はみな優秀で、周りからは「何氏の四傑」と呼ばれていました。
何紹基も含め、兄弟たちが勉学に集中できたのも、家事や身の回りの世話を文句も言わずに全て一人でこなした母親の存在があったからでした。
何紹基に本当の書の面白さを教えてくれたのは清代中期に活躍した書家で評論家の包世臣でした。
包世臣からは「書法の源流を六朝(魏晋南北朝)の碑、とくに北碑(北朝の支配していた地域に残っている碑や刻石)の中に見出しなさい」と教わり、その言葉を鵜呑みにせず、自分の信念をしっかりと持ち、研究した事が後に書家として大きな成功をおさめる事になります。
それが難しい進士の試験に合格した事と、その中でも文字や書に優れた人が選ばれる翰林院庶吉士に抜擢された事でした。
その時の指揮官であった阮元との出会いが更に何紹基を成長させる糧となり、程恩沢の門下生として更に学を高めました。
しかし、その後四川省の役人となりましたが、率直な意見書を朝廷に提出し、これがもとで免官されてしまい、その後は済南や長沙の書院で主講をつとめました。
何紹基は書家・顔真卿を基礎に、北朝の金属や石などに記された文字資料である北碑、古代中国文字の篆隷から古代中国の古文である鐘鼎文字まで幅広く学び、風格を併せ持った独自の書風を確立した事が高く評価されており、晩年までその研究と新しい書の生命を発見する事に励み、枠に囚われないスケールの大きい新たな表現を開拓し続けました。