清朝時代末期から近代にかけて活躍した画家・書家・篆刻家です。
清代最後の文人といわれ、詩・書・画・篆刻ともに精通し、「四絶」と称賛され、中国近代でもっとも優れた芸術家と高い評価を受けています。
浙派を学び、鄧派の影響を受け、石鼓文などの研究を通して独自の刻風を生み出した現在でも高い評価を受けている篆刻や、明の徐渭や清初の八大山人、石濤らから多くを吸収し、気品のある個性的な画風を確立した画、周代の石鼓文に基づき篆書に新様式を確立した書などその功績は数えきれないほどあります。
呉昌碩の家は曽祖父、祖父、伯父、父科挙の郷試に合格しているエリート家系でした。
幼い頃から父親に篆刻を学んでいた呉昌碩ですが、家計は苦しく印材を調達する事ができなかったため、レンガに釘で文字を彫って鍛錬に励んでいました。
呉昌碩の少年時代は清朝が阿片戦争によって傾きかけている時でしたが、16歳までは安定した生活を送る事ができ、塾に通って古文や篆刻を学びました。
17歳からは内乱によって各地へ放浪を与儀なくされますが学問に励み続け、官僚や私設秘書などを経験しており、その時に収蔵家として有名な呉雲、呉大澂、潘祖蔭、沈汝瑾との交流により鑑賞眼を高めていきました。
29歳の時には杭州、蘇州、上海などに遊学しており、蘇州では書家の楊峴に師事して更に技術を向上させると同時に、詩法や詩作などの分野で様々な偉人から技術を学びました。
結婚してから上海に住み書や篆刻を売って生計を立てていましたがその生活は苦しいものでした。
著名な芸術家として知られる任伯年から本格的に画を学ぶとその技術が認められ富裕層から人気が高まり、やがて篆刻や書も高値で取引されるようになりました。
晩年には張熊、蒲華、胡遠(公寿)、康有為などとも交流を深めています。