中国・北京出身の書家として知られており、教育家、詩人としての顔も持っています。
姓は愛新覚羅で、字は元伯、元白があり、中国を統一し清朝を打ち立てた家系で清朝雍正帝の九代目子孫でもあります。
しかし、生涯「愛新覚羅」を名乗る事はなく、自らの実力で中国書道界の大御所の地位を手にしました。
幼い頃に父親が亡くなると祖父に育てられ、文学や書画を学んでいました。
北京匯文中学(高校)に通っていましたが、祖父が亡くなると中退し、独学で絵画を極めていくようになります。
そんな中、傅增湘の紹介で陈垣の授業を受け、文学に興味を持った啓功は次第に文学の世界にものめり込むようになっていきます。
こうした研鑽が実を結び、後輔仁大学の美術学部と中国文学学部の助教授となり、約60年間教鞭をとり、後進の指導、育成に力を注ぎました。
啓功の人柄はおおらかで、ユーモアあふれるやわらかい物腰が多くの人々との交流を持ち、当時の中国ではお店の看板などを啓功に揮毫の依頼をする所が多く、街中でも啓功の書を目にする事ができます。
しかし、あまりにも多くの依頼が殺到するため、対策として自宅の部屋の入口には「病気のため、面会謝絶」といった札を掲げるなどの対応策で相手を傷つけずに依頼を断っていたそうです。
また、啓功の作風は文化大革命時代に毎日のように朝から晩まで他人の書いた文字を毛筆で大きく書き写すように命ぜられていた事で生まれたもので、啓功自身が生み出した独自の表現を感じる事ができます。