石濤の作品を買取ります
石濤は明王室出身の清朝時代初期に活躍した遺民画家で、八大山人とも縁戚がありました。
黄山派の巨匠とされ、その絵画芸術の豊かな創造性と独特の個性の表現により清朝きっての傑出した画家として挙げる事ができ、髡残、弘仁と共に「三高僧」、そこに八大山人を加えて「四画僧」と呼ばれています。
「廬山観瀑図」「黄山図巻」など黄公望の影響のみえる山水画は特に人気が高く、現在でも高く評価されています。
石濤の父親は靖江王の朱亨嘉で、明朝が滅亡すると監国と称して空位となった明の帝位を得ようとしました。
しかし、亡命王朝である福建の唐王から反逆者として扱われ、明の官憲に捕えられ命を奪われます。
もちろん、朱亨嘉の息子である石濤もその命を狙われる事となり、身を隠すために出家し、僧となりました。
そこでは書画に没頭し、山水画、人物画、花鳥画などを学び、暇さえあれば臨摹(りんも)に明け暮れていました。
特に書家である顔真卿に夢中になっていたようです。
武昌、廬山、宣城、南京と地方都市を転々とし、40代後半になり、康煕帝から庇護を受けようと上京しますが、仏教を冷遇していた康煕帝の庇護を受けることはできませんでした。
しかし、康煕帝の従者であった博尓都(ボルト)がパトロンとなり、生涯石濤を庇護する事となりました。
こうして禅僧としての地位を捨て画家としての道を選んだ石濤は、各地で制作活動を行い、八大山人ら多くの文人と交友するようになります。
そんな中、腕を病み制作活動が困難となりましたが描く事は辞めず、精力的に制作活動を続けました。