章炳麟を買取ります
章炳麟は19世紀末から20世紀始めにかけて中国で民族革命を盛んに唱えた革命家、思想家です。
孫文、黄興と「革命三尊」と並び称され、「国学大師」と呼ばれるほどの学識を持ちつつ血気盛んに様々な革命運動に飛び込んでいった事で知られています。
字(あざな)は枚叔、号の太炎でも知られています。
浙江省余杭県の地主の四男として生まれ、幼い頃から母方の祖父と父親から考証学の手ほどきを受け、杭州にある詁経精舎に入り兪樾に師事しました。
そこで古文経学、小学(文字の形体・音韻・訓詁について研究し、経学を基礎づける学問)を学び、史学を修め、戴震から続く皖派考証学に連なる学者として活躍していました。
科挙のための学問を軽蔑していた事から科挙を真剣に受験する事はなく、学識であったにも関わらず進士にはなっていません。
清時代末期に鋭い言論を武器として「種族革命」を主張し、保皇党(変法派)と激烈な論戦を展開しています。
しかし、「蘇報事件」で入獄する事となり、その後日本に亡命すると中国同盟会の機関紙「民報」の主筆をつとめ、さらに革命を強く唱えました。
ちなみに日本へは何度か亡命しており、その際は梁啓超、孫文と交流があり、魯迅は日本時代の章炳麟の教え子の一人として知られています。
そのため、魯迅、毛沢東は章炳麟の影響を強く受けています。
辛亥革命後は政治的には保守派となったが、その後も袁世凱に反対して捕らえられ、軟禁されるなど7回の指名手配と3回の入獄を経験し、晩年には政治から離れ、国学大師として後進の指導、学問著述に専念しました。
音韻学、方言学、諸子学では画期的な成果をあげており、仏教哲学の特に唯識哲学や因明学によって荘子や名学(古代論理学)を解釈するなど、中国の伝統諸学・清朝考証学を「国学」に改鋳するのに最も大きく貢献しています。
残された作品では篆書体の作品が多く、残存作品も数多いといわれています。