徐渭を買取ります
徐渭は中国明代に活躍した文人で、書・画・詩・詞・戯曲・散文など多様なジャンルで天才性を発揮した事で知られています。
書は蘇軾・米芾・黄庭堅などの宋代の書に師法し、行書・草書に優れ、袁宏道が「八法の散聖、字林の侠客」と評したように自由奔放な書風を得意としており、のちに清時代初期に活躍する八大山人・石濤・揚州八怪らは徐渭の書風を強く敬慕したといわれています。
画は牧谿など宋・元の花卉図を模範とし、自由奔放で大胆な画風で知られ、好んで水墨の花卉雑画を描き、自作の題詩を書き込んでいるのが特徴です。
この画風も八大山人・石濤、また鄭燮や李鱓、清末の趙之謙、呉昌碩、斉白石、潘天寿など後に活躍する大家に大きな影響を与えました。
徐渭は中国・浙江省山陰県出身で、諱(いみな)は渭、字(あざな)をはじめ文清、のちに文長と改めており、天地・青藤・田水月・天池漱生・天池山人・海柳仏・山陰布衣など多くの雅号・室号を持っています。
父親は四川夔州府の知事をつとめていた人物で、母親は父親の召使いでした。
そんな母親ですが徐渭が生まれてから100日後に亡くなっており、後妻だった苗氏と兄が育てました。
幼い頃から経学をはじめ八股文・古琴・琴曲・剣術などのエリート教育を受けており、20歳の時に童試に合格し秀才となりました。
しかし、その後20年間、郷試に臨むも及第に至ることはありませんでしたが、多くの師友・学友を得て郷里では「越中十子」と称されました。
徐渭は波乱万丈の人生を送った事でも知られており、育ての親である苗氏が14歳の時に亡くなると精神的に不安定となり、この事はこれからの徐渭の人生に大きく影響してきます。
科挙に受からず役人になれなかった事も大きな精神的負担でしたが、徐渭の才能を見抜いて幕客(私設秘書)に抜擢し、様々な文章の代筆を依頼するなど庇護者であった胡宗憲が不正事件で失脚し、獄中で自らの命を絶った事は更に徐渭の精神を蝕んでいきました。
それは自らの耳を錐で突いたり、腎嚢を潰すという奇行が発展し、妻の命を奪うという形で表れ、死罪になるところでしたが、友人などの働きかけにより、7年の獄中生活で済みました。
釈放後は紹興近くの名勝五泄山に友人らと滞在し、杭州、南京、宣府など中国各地を遊歴し、多くの人物と交友し、詩や絵、文筆などを盛んに行いました。
病気が進行した徐渭は故郷へ戻りますが、誰とも会おうとはせず、自宅の門は固く閉ざされたままでした。
しかし、制作意欲は旺盛で、この頃に多くの傑作を残しました。