中国・湖南省出身の中国清時代末期に活躍した軍人、政治家です。
弱体化した清の正規軍に代わり、湘軍を組織して太平天国の乱鎮圧に功績を挙げた人物として知られています。
また、清朝に仕える漢民族として初めて、地方官の最高位である直隷総督となった事も有名です。
進士となり、礼部右侍郎在職中に母親が亡くなった事で喪に服すため帰郷した曽国藩ですが、太平天国の乱が勃発し、清の正規軍である八旗が鎮圧に失敗したため、政府から太平天国軍討伐の指令が下り、故郷から戻りました。
当時の清はアヘン戦争、アロー戦争で疲弊し、戦時賠償や増税によるインフレによって経済状況は悪化していました。
また、軍のモラルも低下しており、民衆から略奪を行うなど最悪の状況でした。
そんな中、曽国藩は義勇軍的な私兵部隊「郷勇」を組織して厳格な軍紀を定め、統率された軍隊として強さを発揮し、太平天国軍を破る事に成功します。
のちにこの郷勇は湘軍として活躍する事になります。
こうして活躍を見せた曽国藩は政府に警戒されながらも最終的には地方官としては最高位に当たる直隷総督となりました。
一方で、ヨーロッパ近代文明の科学技術を導入する運動である洋務運動にも参加しており、洋式の兵器工場の設立や留学生の派遣などを行い、後進の育成にも力を注ぎ、李鴻章や左宗棠など多くの人材を育て上げました。
また、文人、朱子学者としても一流と評価されており、その作品は『曽文正公全集』『曽文正公手書日記』にまとめられています。