中国・長洲県相城里(現・江蘇省蘇州)出身の明代中期に活躍した文人、画家です。
文人画の一派である呉派を興し、「南宋文人画中興の祖」として知られています。
また、明代写意花鳥画風の創始者としても評価されており、南宋時代の水墨による植物画の伝統を受け継ぎ、潤った水墨を強調し、瀟洒で自在な筆使いで事物を巧みに捉えて表現した作品は沈周ならではです。
様々な事物を題材としていたため、山水、人物、植物、果物、花鳥いずれの作品も巧みに描きました。
また、蘇州文壇の元老として中国文学史上にその名を刻んでおり、詩書画三絶の芸術家として後世になっても高い評価を受けています。
沈周の生家は元代からの名家ですが一時没落し、曽祖父の代より持ち直して広大な農地などの恒産を所有し富豪となりました。
そのため、良い環境で育った沈周は、画を父・恒吉、伯父・貞吉に学び、その後父の師でもあった杜瓊に学びます。
そして趙同魯や劉珏にも教えを受け、五代十国時代の董源や巨然に倣い、元末四大家に私淑しました。
また、沈家は多数の絵画を収蔵しており、沈周は古画を臨模してはその長所を吸収し、宋元代の名家の画風を融合させた独自の画風を築き上げました。
一方で、15歳の時には父親から家産の収税役を引き継ぎ、27歳の時に地方官吏に推挙されましたが、家訓を守り生涯にわたって仕官する事はありませんでした。
そのため、蘇州の農村で文芸にふけており、沈周の文房(書斎)には文人や好事家など多くの人々が訪れ、その中の呉寛、都穆、文林とは特に深く交流しました。
そんな沈周には書画の依頼も多く、温厚で人と争う事をしなかったため、依頼に追われる日々を送りました。
中には贋作に落款を求められる事もあり、これも拒絶しなかったそうです。
そのため、沈周の作品は生前から少ないとされており、現在でも本物は高値で取引されています。
こうして晩年はますます文名、画名ともに高まりましたが、家は蓄えを失い貧窮していきました。