中国・湖南省出身の書家、政治家です。
晩年には農髯と号しており、晩年になってからの作品が多い事で知られています。
曽熙は、当時書の一番人気の作家とされた李瑞清と比べられ評価されており、お互いを意識した存在だったといわれています。
また、書、篆刻の分野で活躍した張大千は愛弟子という事も有名です。
幼い頃に父親が亡くなり、貧しい生活を送った曽熙は勉学に励み、31歳で挙人となり、進士にあげられ政府の官僚になりました。
しかし、翌々年には科挙制度が廃止され、その6年後には清王朝が倒されるなど国家の激動の中、官僚として生活を送っていました。
清王朝が滅亡すると、石鼓書院(せっこしょいん)で教鞭をとり、55歳の時に上海へ移ります。
上海では書の揮毫によって生計を立て、60歳になってから本格的に作画を始めます。
曽熙のこの行動は、当時の政治闘争による混沌とした世事とは一線を置くために書画へ専念していったと考えられています。
曽熙は石鼓文・夏承・華山太傳・右軍大令を学び、特に鶴銘を最も好んだとされており、ライバルとして比べられていた李瑞清からは年齢が離れていた事もあり、尊敬されていた記述が残されています。