中国・福建省晋江市出身の明朝時代に活躍した書家、画家、政治家です。
画は山水、書は行草を得意とし、特に書は邢侗、米万鐘、董其昌とともに「邢張米董」「明末の四大家」などと称されるほどの評価を受けています。
古法にとらわれない独創的なスタイルで明朝時代の新しい風気を代表する作家の一人としてその名を挙げる事ができます。
進士の試験に合格して翰林院に入った張瑞図は57歳の時に礼部尚書となって内閣に入りました。
この出世は宦官の魏忠賢の愛顧を受けていたためとされており、毅宗が即位して魏忠賢が処罰されて自ら命を絶った事がきっかけで張瑞図もその一党として弾劾されてしまいました。
しかし、毅宗は張瑞図を庇護しましたが張瑞図自身は辞職を希望し、太保の官位を贈られて帰郷しました。
その後、魏忠賢一味の罪状調査のとき、かつて張瑞図が魏忠賢の生祠の碑文を書いたことが発覚して毅宗の怒りをかい、太保の官位をはく奪される結果となりました。
こうして平民となった張瑞図は郷里で禅に心を寄せ、詩文に思いを託して書画を制作する悠々自適な生活を送りました。
その書は始めは唐時代の孫過庭を見て学び、その後、栄時代の蘇軾を学んだといわれています。
また、張瑞図の子の潜夫が木庵性瑫と親交があったことから、渡来した黄檗僧らによって瑞図の作品が日本にもたらされました。
江戸時代の日本は唐様が流行した事と「瑞図」の号が二水で水星の生まれ変わりとの言い伝えから、その書を室内に掛けておくと火厄を免れるという俗言が生まれ非常に珍重されることとなりました。
日本から福州まで買いつけにくる者も多かったといわれ、現在でも日本に多くの遺作が伝わっています。