明朝時代の末期に活躍した書画家で、字(あざな)は玄宰といい、号は思白、香光、思翁などがあります。
清朝の康煕帝が董其昌の書を敬慕したことは有名で、当時の流行となり、江戸時代の日本の書風にも大きく影響を与えた事で知られています。
その独自の画論は文人画(南宗画)の根拠を示した隆盛の契機をつくり、後世へ及ぼした影響は大きく、「芸林百世の師」と尊ばれました。
また、山水画を得意としており、顧正誼の家で元末四大家である黄公望、倪瓚、呉鎮、王蒙の作に触れたことに感動した事がきっかけで23歳の頃から始めるようになり、多くの作品を残しました。
幼い頃から高級官僚にして書家で名を馳せた莫如忠の書生となり研鑽を積み、13歳で科挙の童試に合格しましたが、この時に書でのトップになれなかった事が悔しく、17歳から本格的に書に取り組むようになり、碑文や法帖を顔真卿、鍾繇、王羲之から学びました。
その後も35歳にして殿試に及第し進士となり翰林院庶吉士や皇太子の教育係など官僚としてエリートコースを進む董其昌ですが、政争に巻き込まれて左遷されると病気を理由に職を辞して帰郷し、詩書画三昧の生活を送るようになりました。
もともと高級官僚に執着のなかった董其昌は、この生活に満足しており、高利貸などを営み、かなりの横暴を働いて富を収奪したお金で書画の蒐集に費やした事で民衆からの反感を買ってしまいます。
そのため、民衆の襲撃に遭い、家を燃やされるという事件が勃発し、この件は土地の権力者との権力抗争が激化したためだとも言われています。
波乱万丈な人生を歩む董其昌ですが、書に関しての研鑽は真っ直ぐなものがあり、47歳にしてようやく自分の目標としているものが形となり、「書の精髄は魏晋にあり、王羲之の精神を把握し、形ではなくその神韻を受け継ぐべきでそのために書は天真爛漫であるべき」とした「董体」を発表しました。
さらに書の根底には禅味があるとして、自らも禅に参じ、書斎を画禅室と名付け、華厳や浄土などその他の仏教思想にも惹かれ作品に反映させていきました。