京都府出身の昭和時代に活躍した染色家です。
重要無形文化財「型絵染」の保持者に認定されており、その作品は京都やその周辺の風物や諸行事をテーマとし、型染の持つ量産性よりも芸術性に重きを置いて制作されており、数枚の型紙あるいはその表裏を巧みに駆使して防染糊を置き、色挿しを行っています。
また、モチーフを簡略化させながらも、自然の真実を伝える意匠を生み出しており、伝統技術を見事に現代にいかした作風で知られています。
特に竹を主題とする草木の絵模様を得意としており、桃山、江戸期の小袖の研究成果を見る事ができます。
父親は岸竹堂門下の日本画家として人気があり、その一方で漆器や金工品の図案家としての仕事も請け負っており、稲垣稔次郎は幼い頃からそんな父親の背中を見て育ったせいか、芸術の道へと進むようになります。
ちなみに兄も日本画家の稲垣仲静として活躍しており、芸術一家であった事が知られています。
京都市美術工芸学校を卒業すると、東京三越本店図案部に就職しましたが、兄、父が相次いで急逝してしまった事から数か月で仕事を辞め、京都へ帰郷します。
帰郷してからは、松坂屋京都支店図案部に勤務し、捺染友禅の図案家として仕事をこなしていました。
そんな中、京都西陣などの染色工場を訪れる機会が多々あり、独学で研究を重ねていくようになると、自らの作品を制作したいという思いに駆られ、退職を決意します。
こうして独立した稲垣稔次郎は、納得のいく作品ができるまでは作品の発表を控えていました。
第15回国画会展に出品した作品が国画会賞を受賞すると、この受賞をきっかけに次々と作品を発表するようになり、受賞を重ね、その地位を確立していきます。
その後、生涯の盟友となる小合友之助らと結成した「母由良荘」に参加するなど芸術活動の幅を広げ、富本憲吉にその素質を見出され、富本憲吉らと共に「新匠美術工芸会」を結成します。
以後、富本憲吉と行動を共にしており、京都市美術大学講師(後に教授となる)をつとめながらも、多くの展覧会で受賞を重ね、日本の染色界に大きな爪痕を残しました。