東京都出身の昭和~平成時代に活躍する女性の草木染織作家です。
江戸時代に生まれた「吉野間道」を現代の街並みに合うように女性らしさを交えながら制作しています。
草木染めと手織りにこだわり、自宅に「錦霞(きんか)染織工房」を設け、10数名の職人とともに着物や帯の制作を行っています。
藤山千春が手掛ける吉野間道は、江戸時代の三大名妓吉野太夫に京の豪商が贈ったと言われる名物裂の一種で、南蛮渡来の縞織物です。
平織の上に地厚な吉野格子を浮き縞として織り出したもので、名茶人として知られる松平不昧も好んだ織物として有名です。
この吉野間道を復元させたのが柳悦孝で、藤山千春は柳悦孝に住込みで2年間師事しています。
藤山千春が織りの世界に入るきっかけとなったのは、母親が八丈島の隣にある青ヶ島の出身という事が大きく関係していました。
藤山千春の親戚は八丈島で織りをしている者が多く、幼い頃から織りに親しみ育ちました。
ものづくりが好きだった藤山千春は兄の友人が美術の先生をしていた事もあり、女子美術大学付属高校へと入学します。
その後、大学での進路を決める際に母親の後押しもあって、織り機のある工芸科へ進み、初めて機を織る経験をしました。
ちょうどその頃、柳悦孝が学部長をつとめており、大きな影響を受けながら卒業を迎え、卒業と同時に柳悦孝の門下となります。
藤山千春は吉野間道を学びたくて柳悦孝の門下となったわけではなく、柳悦孝の門下として学びたかったから、必然と吉野間道を学びました。
独立して東京都品川区大井という都会のど真ん中にある自宅に工房を構えると、自分で藍を建てたいと思うようになりますが藍甕は1つ数十万するため資金が足りませんでした。
そこで柳悦孝に相談したところ、「土管でも良い」という意見を聞き、土管を自宅の庭の地中に埋め、通常の藍甕とは違う藤山千春オリジナルの藍甕が生まれました。
また、自宅の庭には草木染めに使用する植物が沢山植えられており、季節に応じて使い分けを行い、八丈島にいる親戚から島の植物を送ってもらうなど、こだわり抜いた草木染めを行っています。
そんな藤山千春の作品は都会的な印象のグレーやアイボリー、黒などのベーッシックな色をベースとしたものが中心ですが、明るく美しい色合いの茜、紫根、コチニールなどを用いた鮮やかな色彩の斬新なデザインも手掛けています。
しかし、この作品は販売目的で制作しておらず、藤山千春の秘蔵作品として存在しています。