紋屋井関は室町時代から続く西陣織の機屋で、日本で初めて空引機を考案した事で知られています。
平安京で誕生し、宮廷織物師たちによって育まれた西陣織の始祖と言われ、井関家4代・昌庵が岡本尊行に紋織技術を伝授し、西陣織が始まったと伝えられています。
御寮織物司六家の一つで、六家の中でも現在まで改姓・断絶せずに続いているのは紋屋井関のみとなっています。
ちなみに御寮織物司とは、公家の高倉家・山科家の両家を通じて禁裏の装束や公家装束、将軍・大名などの衣装を江戸末期まで織り続けてきた名誉ある称号で、紋屋井関は天皇家にも織物を納めてきた歴史があります。
紋屋井関が得意としているのは御寮織というプラチナ、本焼金糸、本金糸、本金箔、銀箔など贅沢な素材を使った手織物で、一人の職人が織をこなすようになるまでは20年の修練が必要とされており、熟練した技術と厳しい眼を持っていなければ作り上げる事ができません。
また、超極細の14中生糸を使用して極薄の羽衣のように織り上げられているため、ストッキングよりも薄い衣となり、思ったよりも軽いのが特徴です。
この御寮織は有職文様という伝統の色目や文様を忠実に再現し、勝手な創作を行う事が許されていないという厳しい制約のもとに生み出される文様を持つ織物です。
井関家には「桐竹鳳凰麒麟文」を筆頭におびただしいほどの古代裂が残されており、忠実に再現しながらも技術を発展させ、進化した御寮織を追い求めています。
そんな中、近隣の銭湯で火災が発生し、古い街並みを残す紋屋井関のある界隈は消防車が入っていくには狭すぎるため消火活動が迅速に行えず、次々と燃え広がり、紋屋井関もその被害を受け、貴重な資料や素材が失われてしまいました。
それでも、職人たちの受け継がれた技術や精神によってこれまで以上の物を作る事を新たに決意し、今日も織り続けています。