京都府出身の昭和~平成時代に活躍した西陣の織匠で、文様織物制作の第一人者として知られています。
錦織による『源氏物語錦織絵巻』の制作で知られ、その作品は山口伊太郎が立ち上げた紫紘株式会社と、フランス国立ギメ東洋美術館に収蔵されています。
その技術力と織物に対する姿勢は重要無形文化財の認定の話が持ち上がりましたが、「1500年続く西陣織の伝統を継承し、具現してきたことによる評価」での認定であったため、今までの功績に対して贈られるのならば受け取りたくないと重要無形文化財の認定を拒否したそうです。
そんな山口伊太郎の弟は能装束制作の第一人者の山口安次郎として知られ、兄弟そろって100歳近くまで生きた事はとても有名な話となっています。
西陣で織職人をしていた父親のもとに生まれ、幼い頃から織物に親しみ育った山口伊太郎は小学校を主席で卒業し、上級学校の進学を勧められた。
しかし、大勢の兄弟を養っていくために親を助ける事を決断し、進学せずに親戚の織屋に丁稚奉公に出ます。
その後、10代後半で独立し、様々な織技術を考案しながら独創的な帯の制作を行い、問屋を通さず直接制作した帯を百貨店へ売り込むという当時の流通方法の常識を変えるやり方で事業を大きくしていきました。
しかし、戦争によって贅沢品の販売が禁止され、西陣の人間が徴用や召集に取られた事などから織物業を一時中断する事となりますが、戦後しばらくしてから紫紘株式会社を創業し、見事復興をとげました。
70歳になった年、自身の織物制作の集大成として錦織による『源氏物語錦織絵巻』の制作を試みるようになります。
制作にあたって文様の紋(紋意匠図)を起すために職人を呼んだところ、職人曰く「これを1巻作るのに100万枚の紋紙が必要です」と言われ、「紋紙」を保管する倉庫を作るだけでもどのくらい見積もればよいか分からず、話はなかなかまとまりませんでした。
そこで「紋紙」に代わるものとしてコンピュータによる「紋紙」作りを思いつき、後にグラフィックスソフトウェアが開発され、取り入れていきます。
更に金箔や銀箔は時間と共に劣化してしまうため、永遠の輝きを求めプラチナ箔の開発に着手しました。
このように西陣の伝統技術と新しい技術や文化の融合によって生み出された『源氏物語錦絵巻』は、はじめからジャガード機の故郷であるフランスへ贈る事が考えられており、これはジャガード機によって西陣が発展した事への山口伊太郎なりの恩返しでもありました。
こうして完成した『源氏物語錦織絵巻』はルーブル美術館東洋部門にあたるギメ東洋美術館と山口伊太郎が興した紫紘株式会社に収蔵され、フランスからはレジオンドヌール勲章オフィシエ文化芸術章が授与されています。
しかし、山口伊太郎自身は『源氏物語錦織絵巻』の制作を最後まで指示し、完成を待つだけでしたが、その完成を目前にこの世を去ってしまいました。
生前、『源氏物語錦織絵巻』は全巻を五大陸に残し、天変地異に備え永く保存され、織物制作を志す後進の参考にしてもらう事を望んでおり、山口伊太郎を尊敬している人々の手によって実現への努力が続けられています。