ダヴェンポート Davenportを買取ります
ダヴェンポート Davenportをイギリスのスタッフォードシャーのロングポートに開かれた窯で、スタッフォードシャー地方の三大工場と呼ばれていました。
ジョン・ダヴェンポートによって1794年に創業されたダヴェンポートですが、経営の悪化を理由に現在は廃窯となっています。
金彩をふんだんに使った作品や、カップの取っ手部分にも遊び心を感じるような形状は、アンティーク洋食器のコレクターには一目置かれている存在として知られています。
また、ダヴェンポートが制作していた作品の中には意匠登録されていたものがあり、時が経ってから、他の窯が同じ図柄の作品を製造するなど、後の陶磁器界にも影響を与えました。
創業者のジョン・ダヴェンポートは幼い頃に父親を亡くしており、母親と貧しい生活を送っていまいた。
家計を助けるために学校へは行かずに働き、20歳の時にトーマス・ウルフが経営するイズリントン・チャイナ・ワークスに入り、陶磁器制作に従事しました。
その3年後にはその手腕が買われ、共同経営者となりましたが、その間に窯業の経験と経営の知識、そして資金を蓄え、ロングポートの陶器工場ユニコーン・バンクスを買収した事でダヴェンポートの歴史は始まりました。
その後、ウェッジウッドの経営者であるジョサイア・ウェッジウッド二世は他の窯業者とともにスタッフォードシャー窯業群陶土共同使用組合ポターズ・クレイ・カンパニーを発足し、ダヴェンポートもこれに参加しました。
スタッフォードシャー窯業群陶土共同使用組合に参加した事で、組合を通じて供給されるウェッジウッドと同質の陶土を使う事ができたため、ジョサイア・ウェッジウッド一世が開発したクリーム・ウェアをデザインごとコピーした模造品の制作に励みました。
その一方で、磁器製造にも励み、製法の勉強のためにフランスを訪れ、ハイブリッド・ハード・ペースト(擬似硬質磁器)を完成させました。
また、スポードのボーンチャイナ開発に触発され、ダヴェンポートもボーンチャイナの製造を始めるようになります。
陶磁器制作の一方で、事業拡大を狙ってガラス製品の経営にも乗り出し、この事業は成功を収め、ダヴェンポートの主要産業部門として廃窯となるまで続きました。
こうして次々に陶磁器工場を買収していったダヴェンポートは、ジョージ四世、ウィリアム四世の時代には王室御用達となり、多くの注文を受けるまでに成長します。
その後、ジョン・ダヴェンポートの次男であるヘンリー・ダヴェンポートが経営に参加するようになると、ロングポートにあった工場を年中無休で操業し、北米、カナダ、スペイン、イタリア、アルゼンチン、メキシコ、ペルー、インドへ販路を伸ばし、世界的な企業として名声を手に入れるようになりました。
会社として大きくなったダヴェンポートは家族経営だけでは切り盛りする事ができず、従兄弟などの親戚も加えて事業に従事してきましたが、ジョン・ダヴェンポートの冷遇に反発した者たちは従業員も含め次々とダヴェンポートを去っていきました。
そんな悪名高きジョン・ダヴェンポートがこの世を去ると、三男のウィリアム・ダヴェンポートが会社を仕切るようになります。
彼もまた、冷酷で経営者としては不向きでしたが、会社に勢いがあった事で特別大きな困難に見舞われる事はありませんでした。
しかし、ウィリアム・ダヴェンポートがこの世を去り、その息子が経営を引き継いだ頃、ダヴェンポートの国際収支が急速に悪化し、海外の店舗で赤字が続出する危機に直面します。
なんとか会社を立ち直らせようと、様々な工場を手放すなど対策を打ってきましたが、この困難を乗り越える事ができず、約100年の歴史に幕を下ろす結果となってしまいました。